大井川川越遺跡

大井川へ行ってきた【後編・大井川川越遺跡】

大井川川越遺跡には、「川会所」をはじめとして、川越人足の詰所となる「番宿」、川札の交換所である「札場」などの建物が復元保存されています

中編で紹介した「川会所」の建物は明治以降、度々移転・移築されて、校舎や役場や記念館などの建物として再利用されたそうです
そして昭和41年、国指定史跡「島田宿大井川川越遺跡」として町並が保存指定された際、現在建っている場所に修理移築されました(江戸時代に建っていた場所ではないが、すぐ近く)
ここまで移築修繕しながら生き長らえることができる昔の建物ってやっぱりスゴイですね

大井川川越遺跡
道路がアスファルトなのは住宅地の一部みたいなものなので仕方ないとして、雰囲気ありますね


番宿、その他
番宿

川越人足は一番組から十番組まで分かれており、それぞれの組には50人程度在籍していました
番宿はそれぞれの組に割り当てられた詰所で、十番宿までありました

その他には、
口取宿・・・「口取」と呼ばれる事務員が、客の人数や荷物などを各組に割り当てるなどの仕事をしていました
口取は川越人足の中でも年のいった人(OB?)が務める仕事でした

立会人宿・・・「立会人」という、川越しする客を案内する人が詰めていた宿です
客を相手にするからには今でいう観光案内みたいなこともしたのでは?などと想像します

仲間の宿・・・年をとった人足たちが集まっており、会合や親睦の場として使われたというので、今でいう公民館みたいなものなのかな?

大井川川越遺跡 仲間の宿 内部
写真は「仲間の宿」の内部
なるほど、多人数が集まってくつろげるスペースが確保されてます

建物はこのように、中を見物できますが、二番宿や六番宿は現在個人の住宅として使用されているので見学できません
また、すべての建物が復元されているわけではありません


札場

大井川川越遺跡 札場 大井川川越遺跡 札場

川越人足が川札を換金する場所です
川札は油紙で出来ていて、人足は客から受け取った川札を頭に巻いて仕事をしていたそうです
暮れ六つ(午後六時ごろ)その日の業務が終わると人足はそれぞれの番宿に引き上げ、川札は「陸取り」という世話人が回収し、陸取りが札場に行って換金しました
想像ですけど、換金の間に人足たちは着替えや、タバコで一服でもしたんでしょうか

川札の値段そのまま人足の懐に入るわけではなく、「川越刎銭(かわごしはねせん)」といって、二割が差し引かれました
役所ではこれを積立てて、川越し関係の諸々の役人の給料を払ったり、公的建造物の修繕、島田宿の運営費などにあてました
刎銭のうち半分は島田宿運営費に当てることになっていたそうなので、この島田宿というのは特別な出費も多い、かなり他とは違う宿場だったということがうかがい知れます


コラム:不正な川越し

金銭を払わない無断渡河は禁止されていました
これを「廻り越し」といって、厳しく処罰されました
しかしいつの世でもそうですが、金を払わず、勝手に川を渡ろうとする人間は後を絶ちませんでした
後世になるほど、街道の交通量は激増し、不正に川を渡ろうとする者も増えていったようです
廻り越しの中でも、下流のほうを渡るのを「下瀬越し」といって、ここを渡らせるヤミ商売などもあり、取り締まりには相当苦労したようです

風来のやよいちゃん1 大井川

ちなみに大井川両岸の村々だけは川越し人足を通さない通行が許されていました
その際は自分たちが用意した川越用の大きな桶を使って渡ったそうです


コラム:架橋問題

ここまで制度が複雑化し、川留めの時は旅人も何日も足止めをくらうことになる大井川の川越制度ですが、江戸時代の長きを通じて、橋を架けようとか、船を渡らせようとか言い出す人はいなかったのでしょうか
そういう話は度々あったそうです
しかもこの時代で一番エライ徳川幕府からも、そういった話が出ていたようで、
そのたびに島田・金谷両宿場の人々は猛反対を続けました
莫大な金額が動く川越制度ですから、やめてしまった時の経済的損失は計り知れないし、職を失う人間が山ほど発生することを考えれば当然といえます

島田・金谷の人々が幕府にすら頑強に反対できる根拠は実は一つの事件にあります
駿河大納言忠長(ただなが)の浮橋架橋事件というものです
3代将軍徳川家光の弟、徳川忠長は当時駿河を治めていました
寛永三年(1626年)、家光が駿河国を通過するにあたり、忠長は道を整備し、大井川に橋を架けて歓迎しました
しかし家光は「箱根と大井川は関東鎮護第一の要地なりと、神祖(家康おじいちゃん)も今の大御所(秀忠おやじ)も常々言っていたのに、橋をかけるなど言語道断!」だと言って激怒したといいます
忠長はその後、傍若無人なふるまいをとがめられ、蟄居・改易、その後自刃します
(その後駿府城は藩主のいない城番時代が幕末まで続きます)

この家光が激怒したというエピソードは、忠長への陰謀めいた処罰を正当化するためのでっち上げではないかと、歴史家の間でも意見が分かれています
ともあれ、島田・金谷の両宿場の人々はこの有名なエピソードを持ち出し、
ことあるごとに架橋、渡船計画に反対してきました
幕府としては、家康や秀忠の名前を出されると弱いのです


3回に渡り、大井川について語ってきましたが、いかがでしょうか
ここには「島田市博物館」もあり、島田宿、大井川関連の貴重な資料が展示してありますので、訪れた際はぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか
この記事を書くために参考にした「大井川の川越し」という本は博物館の売店に売っていたもので、内容が極めて充実しているのに500円という超良心価格なので、
より詳しく川越制度について知りたい人にオススメです

しれっと始まった変なブログマンガもこれからちょくちょく描く予定でございます


参考文献:「大井川の川越し」(島田市教育委員会)

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。