風来の忍者やよいちゃん

街道を行こう【基礎知識編】

当歴史ブログでは、主に江戸時代に関しての記事を書いていくのですが、
江戸時代といえば、街道が整備され、より多くの人やモノが行き交うようになった時代といえます
つまり江戸時代といえば街道
街道といえば東海道ということで、しばらくは旧東海道をたどって、あれこれ書いていきたいと思っております

ただ、記事を書くにあたって、基本的なことをきっちり調べたことがないので
ちょっと整理しながら紹介します

今の道路にも、昔の痕跡や記念碑などが地元の人達の努力によって残っているものです
ただ、あるのは何となくわかっていてもわざわざ立ち止まらず、興味が無ければスルーしてしまうことが多いんではないでしょうか
基礎知識が少しでもあれば、どこかに旅に出た時にすぐ
「あっ、ほーん…なるほどね」と思えるはずです
小さいことですが、旅先の地域について知るための取っ掛かりになるかもしれません


制度としての街道

関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)徳川家康は、東海道の各宿場に「御伝馬の定(さだめ)」を布告しました
いわゆる、伝馬制です
各宿場に「伝馬」(公用馬)と必要な人足を置くことを義務付けました

これを皮切りに日本橋を起点として、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道五街道をはじめとした街道が整備され、宿場の新設、一里塚の設置などが行われました
そして、街道の宿場の管理は幕府の「道中奉行」が管理しました

義務付けられた伝馬制の定数は東海道の場合、最初は人足36人、馬36匹でしたが、
参勤交代が制度化されて以降、人足100人、馬100匹となりました
これは地子免除(税の免除)と引き換えの義務でした
(ちなみに中山道は50/50、他は25/25)


問屋場(といやば)

各宿場には宿役人が詰め、宿場全体を管理する場所、「問屋場」がありました
伝馬が常備されてるのもここです

伝馬というのは物や人を運ぶための馬ですが、ここで扱う伝馬は公用のもので、
幕府の公用、諸大名、公家などが使用しました
ですが民間の仕事も認められていたようです(当然優先順位は下がる)

そして、問屋場の重要な仕事のひとつに飛脚業務があります
幕府の公文書などは飛脚がリレー方式で迅速に運ぶため、継飛脚とよばれる公文書専門の飛脚が問屋場に詰めていました

宿役人(しゅくやくにん)
● 問屋・・・責任者
● 年寄・・・補佐役
● 帳付(ちょうづけ)・・・記帳などを行う事務員
● 人馬指(じんばさし)・・・人馬の指図、荷の振り分けなどの指示
● 人足賄い・・・人足の食事などの世話?(あくまで推測)
● 下働き・・・下っ端とか見習いとか、そのまんまの意味でしょう
● 継飛脚・・・公文書をリレー方式で運ぶための飛脚

…などがいました


宿泊施設

● 本陣・・・参勤交代の大名や、その他武家、公家、通信使たちが使用した公用宿泊施設
● 脇本陣、仮本陣・・・大人数のため本陣に収容しきれないときや、複数の藩が同時に宿場を訪れたときに使われた公用宿泊施設

本陣や脇本陣は、名主などその場所の有力者の屋敷が使われたようです
本陣の経営者は苗字帯刀も許されました

江尻宿寺尾本陣跡
江尻宿の本陣跡の石碑

次は一般の武士や庶民が宿泊する施設ですが
旅籠(はたご)と木賃宿(きちんやど)があり、
旅籠のほうは大きく分けて2種類ありました

● 平旅籠(ひらはたご)・・・普通の旅籠
● 飯盛旅籠(めしもりはたご)・・・飯盛り女と呼ばれる下女を侍らせたサービスが受けられる

飯盛旅籠は給仕の域を超えて売春をやるような所もあったので風紀の乱れが問題視されました
幕府の再三の取り締まりもあまり効果はなかったようです

● 木賃宿(きちんやど)・・・薪を宿屋で買って客が自炊するタイプのいわばセルフサービスの宿

木賃宿は当然旅籠より安く泊まれます
そもそも、江戸時代以前は宿といえばそういう宿の方が一般的だったようです


高札場

高札場は、法令や人馬の料金表やその他のお知らせなどを木の札に書いて掲げたいわば掲示板がある場所です
街道や宿場の人通りが多く、目につきやすい場所にありました
高札場があった交差点を「札の辻(ふだのつじ)」といいました
というのは道が交差する部分のことです

川越 札の辻
川越城下町(埼玉県)にある交差点

一里塚

慶長9年(1604年)徳川幕府は、大久保長安を一里塚奉行として、日本橋を起点として、全国の街道に1里(3.927km)約4kmごとに一里塚を設置するプロジェクトを行いました
道の両側に大きく土を盛り上げてつくられ、上には樹木を植えて、旅人の旅のめやすや目印、休憩所にもなりました
恥ずかしながら、一里塚って、ただ下の写真のような石の標識が立ってただけだと勝手に思ってたんですけど、そうではありません

清水区草薙の一里塚
静岡市清水区草薙にある一里塚跡地の石碑

ちなみに当時の人々は男性なら一日十里(約40km)、女性なら七里(約28km)程度歩くのが普通だったそうです
現代人が失ったパワーがそこにある


その他の施設

飛脚問屋・・・公儀の飛脚に対して、民間では町飛脚という職業がありました
その飛脚人足が務めているのが、飛脚問屋です
茶屋
水飲み場・・・公共の水飲み場もありました
現代では当たり前にありますが、戦国時代などから見れば、これはかなり高度な社会インフラが整ったぞといった感じではないでしょうか
馬の水飲み場・・・江戸時代の旅に馬は欠かせないので、これもかなり大事ですね
由比宿 馬の水飲み場跡
この写真撮った当時は全然知らなかったんですけど、由比宿に馬の水飲み場だった水路が残ってます
今はなぜかカメが泳いだり日向ぼっこしてます
当時はもっと深かったようですが


家康の天下統一には全国の主要街道の管理が欠かせなかったといえます
彼が中世を完全に終わらせるにあたって取り組んだのが
江戸初期の大インフラ整備だったわけです
これにより情報伝達、物流、経済活動が爆発的に発展していくことになります
そして日本は地方分権の形をとりながらも、徳川公儀の網の目が全国に張り巡らされ、実質は幕府を中心とした中央集権国家に限りなく近いものになっていきました


参考文献
「別冊歴史REAL 江戸の旅とお伊勢参り」洋泉社
「歴史人2011年11月号 江戸の暮らし大全」KKベストセラーズ
「一個人2011年5月号 大江戸入門」KKベストセラーズ
「季刊清水48号」戸田書店

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