穴山梅雪

東海道を行こう[第2回]【江尻宿】②江尻城

今回は江尻宿が江戸時代に東海道の宿駅になったきっかけを見ていくことにします
そのため、時代は少し遡って戦国時代のお話になります


前回①で紹介した魚町交差点を真っすぐ行くと

江尻宿 魚町交差点 江尻宿 魚町稲荷神社へ
「魚町稲荷神社」が見えてきます

魚町稲荷神社とてもキレイな神社です
地元の人がしっかり手入れをしているという感じ…どこの町もこうありたいものです
ここは「サッカー神社」とも呼ばれていて、この写真の中にも丸いのが見えるでしょう
これは世にも珍しいサッカーボールの石碑です
エスパルスの選手がシーズン前に必勝祈願に……
とまあ、サッカーの話は置いといて…(清水区民のくせにオフサイドが何なのか聞いてもその場で忘れるやつにサッカーの話する資格があるわけないやろ)これは歴史ブログなので、そもそもこの神社が宿場の歴史にどう関係してくるのかを見ていきましょう

魚町稲荷神社

実はここはあの武田軍の城があった場所なのです


武田信玄の駿河侵攻

このブログを書いてる1年前の大河ドラマ「おんな城主直虎」でも描かれていたように、
駿河の今川家の弱体化を好機とみた武田信玄が永禄11年(1568)12月、駿河侵攻を開始
怒涛の勢いで、今川氏真を駿府から追いやります
駿河を押さえた信玄ですが、これ以降、その動きを牽制しようと興津川の東に出張ってくる北条と、西に逃れた今川軍との戦いに突入します
領国の北には北条と関係を深めた上杉謙信もいたりして、信玄は甲斐と駿河を行ったり来たりします

この第一次駿河侵攻の時点では、兵力の分散を恐れたのか、信玄はせっかく落とした駿府の今川館は手放し、今の静岡市でいう清水区の興津川より西をガッチリと押さえるという選択をし、翌年4月に甲斐に撤兵しました

この時に武田軍の拠点となったのが、久能山城(静岡市清水区)と江尻城(同)でした
久能山城は、現在では徳川家康を祀(まつ)る久能山東照宮として、平成22年国宝に指定されたことでも有名ですが、ここにもともとあった山城でした
江尻城はこの駿河侵攻時、今福浄閑斎を奉行、馬場信房に縄張りを命じて、新規に築城が開始されました
さらに現在の清水港のあたりに袋城を築き、水軍の拠点としました

領国が甲斐(現在の山梨県)、信濃(現在の長野県)と海がない地域から領地を広げていった武田信玄は、物流も生産性も限られており結構なハンデを背負っていた戦国大名だと思いますが(北の海には上杉謙信という想定外に強いのがいて……信玄といえばその辺の話のほうが有名ですよね)、ついに海を手に入れたわけです


江尻城と穴山梅雪

江尻城
魚町稲荷神社の反対側、川沿いのスーパーから本丸の方を見た写真 現在本丸の場所には小学校がある

前回も少し触れたように、清水港は良質な港で交易の拠点ともなりますし、
巴川の水運も利用できます
陸路においても甲斐に通じる道が近いので、やはり武田は駿府よりもこちらを重要視しています
そういった理由により江尻城は武田の駿河における最大の拠点と位置づけられました

ここにいた城将は、初期は山県昌景、昌景戦死後は穴山梅雪でした
穴山梅雪というのは2016年の大河ドラマ「真田丸」の最初のほうに、榎木孝明さんが演じるちょっとずるがしこそうな奴が出てきたと思うんですが、そいつです
上手に織田・徳川と内通した裏切り者のイメージが強いですが、穴山氏は武田の一門なので重要な武将です
ただ、それと同時に本家の武田とはある程度距離を置いた独立性のある国衆としての側面もありました
後の寝返りもその辺の事情が関係してるのかもしれません
(「武田信君」とか「穴山信君」とも呼ばれますが、入道して「梅雪斎不白」と名乗る)

穴山梅雪
真田丸の穴山梅雪をモデルに描いてみました 榎木孝明さんには似てないかも^^;

天正6年(もう信玄はおらず、武田勝頼の時代)梅雪は江尻城の本格改修を行います
これはとても大規模なものだったらしく、武田がいかにここを重視したのかがわかります
梅雪は「百尺の城楼」とよばれるとにかく大きな建物を建てて「観国楼」と名付け、
「観圀」の額をバンと掲げていたといいます
そしてさきほどの写真の魚町稲荷神社の由緒書きにもあるように「一村一郷に・・・」などと言って社殿を造営したりと、結構ノリノリで改修工事を進めていくあたり、
さすが「梅雪斎不白」などといういかにも文化人めいた号を名乗る人間らしく
やることがちょっと垢抜けているような印象を受けます
これも推測ですが、信玄が死んで勝頼の時代になって、なんとなく開き直りに似た解放感があったんじゃないでしょうか…

穴山氏は現在の甲府から清水へ抜ける52号線の途中の身延あたりの地域を領有しており、
昔から駿河との関わりが深く、
第一次駿河侵攻の際、梅雪が徳川の酒井忠次と交渉した文書も残っており、やはり西への窓口としての影響力のある人間だったことから、江尻城主として抜擢されるのは自然な流れだと思うのですが
武田勝頼にとってはそれが諸刃の剣になってしまったということでしょうか

江尻城
巴川沿いに設置してある説明板 巴川の流れを引き込み、堀に利用しているのがわかる


町の発展

ともあれ、この城ができたことにより江尻は城下町として発展していきます
武家屋敷や、鍛冶町、鋳物師町、紺屋町などの職人の町割りも形成されました

江戸時代より前の東海道には江尻宿は含まれていませんでした
府中宿(駿府)から興津宿までほぼ直線のルートを通っていたのです
どちらかといえば興津のほうが、古代から朝廷が東の蝦夷(えみし)に備えるため、関所をおいた重要地点だったのです

ですが江戸時代に入ると江尻は江尻城廃城後も城下町として発展していたので、
東海道のルートを南に迂回させてまで新たな宿駅としたのです

静岡といえば戦国武将は徳川家康と、最近今川義元も見直す動きが出てきましたけど、
調べていくと武田の影響も大きいということがわかります

巴川
城の天然の要害となった巴川べりから北の山々を眺める


参考文献
「武田信玄」笹本正治(ミネルヴァ書房)
「静岡の城」加藤理文(サンライズ出版)
「季刊清水48号」(戸田書店)

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