江戸のはじまり② ~水と塩の確保~

やることが多い・・!!

前回に引き続き、家康の関東転封について見ていきます
当然ながら、大規模な国替えに伴い、対処しなければならないことは山のようにあります
まずは人事
関東転封の正式通達の翌日7月14日付けの黒田官兵衛らへの書状に、
北条氏政の子、高野山送りとなっていた太田氏房とその家臣の妻子らに対する居住の自由を承認した旨が記されており
これをはじめとして北条と関わりの深い人物、寺社仏閣に対する禁制、所領の安堵、知行宛行を行い手厚いサポートで人心掌握に努めています
その他、自分の家臣団への所領の振り分けなどもあるのでとにかく忙しい
ただ、家康にとってはかつて今川や武田の戦国大名規模の領国を手に入れた経験もあるので、
もうプロフェッショナルと言ってもいいでしょう
こうなると一番の問題はやはり環境ということになります

生きるために必要なもの

江戸に本拠地を定めたからには自らの家臣団が続々と入ってくることになります
人が増えれば必要になってくるのは、水、塩、食料、土地といった生きるために必要なものです
小説の序盤の家康のセリフに「いま必要なのは城内の地ならしではない。江戸そのものの地ならしじゃ。城など、あと、あと」と城の普請の話をする家臣をたしなめる場面があります
具体的にどのようなことを行ったのでしょうか
家康のもとで行われた土木事業は数多くありますが、まず最優先でやった二つの工事をおさえておきましょう


運河開削

今の東京都との県境に近い千葉県市川市に行徳という場所があります
ここはかつて塩の一大生産地でした
今でも地図を見るとその付近には「塩浜」という地名が見て取れると思います(わかりやすい)
まず家康たちはここに目をつけ、ここからの安定した塩の供給ライン確保を計画します
この時代、最もスピーディな輸送手段は水運です
よって、江戸から行徳までの運河の開削が行われたのです
「船で海から運べばいいんじゃないの?」
と思うかもしれませんが、江戸前島が南に突き出ており、遠回りになるし
多くの河川が流れ込むため水深が浅く、潮流も強いため難儀するのです

まずは江戸前島を横切る形で道三掘という水路を開削します
これは江戸城西の和田倉濠から呉服門橋のあたりまでの約1kmの水路でした
同時進行で日比谷入江に河口があった平川の流路を道三堀と合流させます
そして現在も残る、江東区を横切る小名木川、江戸川区を横切る新川
これらの人口河川の連結により、塩の安定供給を実現しました

なお道三堀については、現在は埋められており、ほとんど痕跡はありません


神田上水

もうひとつが飲料水の安定供給です
生まれた時から蛇口をひねれば水が出ていた我々現代人には想像しにくいんですけど、
昔は言うまでもなく井戸を掘って地下水をくみ上げます
(井戸なんて近所の寺にあるやつぐらいしか使ったことないです…それすらポンプ式ですが)
しかし困ったことに江戸は埋め立て地が多く、掘っても塩分を含んだ水ばかり
そこで、飲料水に適したうまい水が湧き出る水源を探し、江戸に水を引こう
というのが小説の第三話にあたる話になります

まず家康が江戸入りしてすぐ、大久保藤五郎(三話の主人公)に命じて探させた水源が
江戸の北東をカバーする「①神田明神山岸の細流」
南西の「②赤坂の溜め池」ということです

①は具体的には「駿河台、およびその西どなりの本郷台地のあいだに小さな谷水の川がある」(三話)とのこと
グーグルのストリートビューでそのあたりを適当に見てみると…
なるほど、高低差がすごいですね
ここにかつて谷川があったようです
本郷には「東京都水道歴史観」なんてのもあります

②は現在の国会議事堂や総理官邸がある千代田・赤坂の大都会に溜池という交差点や溜池山王という駅名が思いっきり残っています
こんな大東京のド真ん中に「溜池」だなんてアンバランスさがいいです
この辺りから水を引いたのでしょう

そして、しばらくは問題ないのですが、
家康も天下人となり、江戸の人口はどんどん増え、今後水の供給が追い付かなくなることは必定でした
シムシティとかやってればそういう気持ちがわかるんじゃないでしょうか
そのため、さらに大規模な工事が行われます
目を付けたのは「七井の池」、現在の名前でいう井の頭池でした
そこから方向的には下高井戸→落合→目白というルートで水路を開削していきました
小説では「北を上にした地図において数学記号の「√(ルート)」
のような軌跡をえがくことになった」という表現になっていてわかりやすいです
目白からいよいよ江戸城の北、小石川まで来ると、城の外堀を超える必要が出てきます
ここで作ったのが現在も東京にその名の残る「水道橋」でした
昔はここが、外堀をまたぐための、「懸樋(かけどい)」という水を通すための橋があったと言われれば、それが「水道橋」だったのだということがスッと頭に入ります
(実際の場所は水道橋交差点から東に150mほどの所で、懸樋の跡の石碑があります)
江戸には最終的に6つの上水が1600年代に次々と開削されましたが、その最初がこの「神田上水」でした
江戸の人々は井戸を使っていたものの、水道の水を飲んでいたということになります

水道橋を通ってきた水は江戸市中の地下に入り、各所に水を供給します
江戸の地下にはという箱を埋め込み、これを木樋という水道管で繋げてあります
枡はとても画期的なもので、小説でも若き幕臣であり技術者の春日与右衛門が丁寧に説明する場面がありますが、図にしてみました

小説内では「枡とは水位回復装置であり、沈殿装置であり、なおかつ分水装置でもあるのだった。」という表現で枡の機能の説明のまとめとしています
枡は今でも排水部分ですがその名前が残ってます
汚れを底に沈殿させるという単純な機能は江戸時代の枡と共通してます
定期的に掃除しましょう

次回へ続く


参考文献
「家康、江戸を建てる」門井慶喜(祥伝社)
「新・歴史群像シリーズ⑫徳川家康」(学研)
「地図と写真から見える!江戸・東京」(西東社)




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