「家康、江戸を建てる」をより楽しむためのまとめ③【プロの代官が天下を動かす】

家康、江戸を建てる (祥伝社文庫)

関東の屋台骨「代官頭」

家康が関東に入った当初の領地はおよそ250万でした(所説アリ)
このうち半分は自分の家臣に領地として与えます
(例:本多忠勝…上総国大多喜10万石 井伊直政…上野国箕輪12万石 などなど)
残りが家康自身の領地になるわけです
家康が江戸幕府を開いてからはこれが幕府の領地(幕領)ということになります

家康のもとで領地の統治をおこなったのが、「関東総奉行」です
(前身は1592年「関東庶務奉行」→1601年「関東総奉行」)
本多正信青山忠成内藤清成の3人が担当しました
その下に、これは後に歴史家の先生がつけた通称ですが「代官頭」と呼ばれる人達がいました
伊奈忠次、大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱の4人になります
いずれも治水灌漑、検地、街道整備、鉱山開発など、専門知識をもったプロフェッショナルです

こういう人たちが初期のプロジェクトスタッフだったんですね


治水土木の伊奈忠次

特に有名な治水や検地の専門家が、小説内でも1話の主役である伊奈忠次です
彼は関東の土地改良において絶大な貢献をしている人物です
三河の出身で、親が三河一向一揆に参加したため、堺で浪人暮らしをしていたそうです
この辺は家康の懐刀の本多正信に境遇が似ています
当時の堺は経済・流通・政治、あらゆる最先端の都市だったので、彼もそこで大いに学びました
家康の下に帰参が許されると、その頭脳とポテンシャルはすぐに家康の目にとまり、
小田原征伐の輸送・補給部隊などでメキメキと頭角を現わし、関東代官頭にまで抜擢されます
こいつになら関東を任せてもいいという絶大な信頼感です
代官頭になってからは、武蔵国足立郡小室(埼玉県伊奈町)陣屋を拠点に、
各地の民政や治水灌漑工事に力をそそぎ、関東の農業生産力を倍増させます
現在も北関東には「備前堀」(忠次の通称「備前守」からきている)や「伊奈町」などの地名が残り、領民からも愛された代官だったのです
そして彼の究極目標が後に紹介する「利根川東遷」でした


鉱山なら大久保長安

もう一人有名なのが大久保長安です
どちらかといえば政治スキャンダルとか権力闘争で有名な人ですが、
元々武田信玄のもとで鉱山開発や税務を担当していました
甲斐が家康の領国になったときもそのまま甲斐の行政官として大いに活躍しました
そのため家康が江戸に移った時も関東の代官頭に抜擢されるのは当然の流れでした
関ヶ原以後はさらに活躍の場を広げていきます
石見銀山奉行、大和代官、美濃代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行
果ては年寄(のちの老中)や関東奉行など……
わけがわからないぐらい役職を兼務し、「天下の総代官」などと呼ばれるまでに権勢を高めていきました
それだけ優秀だったんでしょう
この人を見ていると、政権の運営には鉱山が絶対に欠かせなかったというのがよくわかります


東海道にも関わった代官頭

さらに、このブログで度々取り上げている東海道の管理に大きな役割を果たしている伝馬制についての諸々の取り決めを定め、整備したのもこの4人の代官頭たちでした
「伝馬定書」といって、各宿場の馬の頭数、区間、馬の数に応じた屋敷の面積、積み荷の駄賃などを細かく定めています
大久保長安は「一里塚奉行」として全国の一里塚設置の責任者にもなっています
ここまで来るともう関東だけの話ではないので、彼らがどれほど多岐にわたる仕事をしていたのかがわかります

↓街道についての基礎知識は下記のリンクから

街道を行こう【基礎知識編】


利根川東遷事業

れきまん★⑥家康vs利根川!

江戸幕府が行った最大の治水工事が利根川東遷です
今の利根川は千葉県の銚子に河口があり、鹿島灘に注いでいますが、
家康の関東入国当時は、何本も支流を枝分かれさせ江戸湾に注ぐ暴れ川でした
この関東一の大河が、江戸を水浸しにしている最大の原因で、
小説では「なぜ利根川なのですか。この関東には、ほかに無数の川がありますのに」
という息子の問いに、伊奈忠次は
「流量が多く、江戸湊(東京湾)にそそぐ河口が広すぎるからだ」と説明しています
逆にこれを何とか制御すれば、江戸は大いに発展すると考えました

ここからは原作小説を読んだり、ドラマを見ればそれが長期的な視野に立った
後の世代まで引き続く大工事だということがわかりますので、
ここでは軽いまとめにとどめますが、
大きなポイントとしては2つ
具体的には現在の群馬県みなかみ町の山奥を源流として南東へ向かう流れを
①現在の埼玉県久喜市栗橋のあたりでせき止め、渡良瀬川に付け替える
(新たに開削した水路は「新川通」
この工事は忠次の次男忠治が1621年に完了させ、
利根川の河口は現在の千葉県浦安に
②そして渡良瀬川を常陸川に付け替える、7kmの「赤堀川」の開削工事
これはとても難航し、2度の失敗を経て
忠治の長男忠克の代で1654年、ようやく利根川が鹿島灘に注ぎました

問題となる川の流路をコントロールすることで
江戸の町はどんどん拡大するポテンシャルを得て、
当時としては世界一の人口を誇る巨大都市に成長します
その陰には巧みな行政手腕と、当時の地方巧者(テクノクラート)たちの知恵と努力があったのです

次回に続く


参考文献

「家康、江戸を建てる」門井慶喜(祥伝社)
「家康の家臣団」山下昌也(学研M文庫)
「歴史群像デジタルアーカイブス〈徳川家と江戸時代〉治世を支えた奉行衆 青山忠成・内藤清成・伊奈忠次」宮本義己(学研)




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