昨年2018年は北海道命名150周年ということで、両陛下が出席する記念事業が行われるなど盛り上がりを見せました
創作の世界でも、漫画「ゴールデンカムイ」の大ヒットは一般の人達が北海道のアイヌ文化を知る絶好の機会となっています
そして、2019年7月15日にはNHKで、幕末・明治にかけて北海道のために尽力した松浦武四郎のドラマが放送されます
そこで今回はそういったお話のバックボーンを理解するために、
日本がアイヌの人々とより深く関わるようになっていった江戸時代の北海道について見ていくことにします
目次
松前藩初代藩主 蠣崎慶広
北海道は明治以前は蝦夷地とよばれていました
日本と蝦夷地の関わりは古く、鎌倉時代には津軽地方を拠点とした豪族安東氏が
蝦夷代官としてアイヌの人々との交易などに積極的に関わっていたようです
そのコネクションやノウハウは後の世まで続きます
しかし戦国時代末期になると、安東氏の被官として蝦夷の渡島半島南部に拠点を置いていた
蠣崎慶広(かきざきやすひろ)が豊臣秀吉から蝦夷地交易の独占権を認めた朱印状を得ることに成功します
さらに慶広は秀吉の死後の翌年には徳川家康ともコンタクトを取りはじめ、1604年、家康から蝦夷地の支配を認める黒印状を得ます
蠣崎氏も古くから道南に住み、アイヌとの交易を(ついでに抗争も)行ってきた一族なので
安東氏への執念の下剋上と言えるでしょう
蠣崎慶広のアイヌへの態度はというと、
秀吉から朱印状をもらった後、アイヌの首長達を呼び寄せて
「我に背く者あれば、関白殿が10万もの兵を率いて追討せられる」と、
強い者に媚びへつらい弱い立場の者にはオラつく、まさに虎の威を借りる狐
しかし和人のアイヌに対する態度というのは、全ての日本人がそうではなかったと思いたいですが、昔からこういうもので、しょっちゅう争いながらつき合っていたようです
ともあれ家康のお墨付きをもらった蠣崎慶広が開いたのが有名な「松前藩」です
(「福山藩」ともいう)
そして姓を蠣崎から松前に変更します
当然この時、蝦夷地全域を支配下に納めてはいないので
松前藩、つまり和人が領有している範囲としては
東・現在の函館市の北、亀田
西・日本海側の熊石
この2箇所を結ぶラインを境界とした南側を「和人地」
その他の場所を「蝦夷地」つまりアイヌ自治区とします
日本唯一の石高のない藩
当時大名や旗本の知行地は米の生産性で何万石とか、ステータスを決めたのですが、
当時の蝦夷では米作りは行われていなかったため、
そういった基準でお家の格を決めることができませんでした
なので大名を名乗れる最低ラインである1万石相当を望んだわけですが、
「交代寄合」といういわば準大名ともいえるようなものに決定しました
大名でもないし、ましてや3万石以上はないと築城を許されないので
島の最南西の松前に陣屋を構えます
松前藩がようやく大名になれたのは享保4年(1719)のことで、
しかしそれから格下げされたり、一時期19年間ぐらい幕府の直轄地にされたり
なかなか大変だったようです
それでも江戸時代通して松前氏がずっと松前藩主でしたから、
北の雄としてのメンツは保っていたといえます
ちなみに念願の城(松前城)を持てたのは幕末、1854年のことでした
そんな江戸の末も末に建てられた松前城は、戊辰戦争の舞台のひとつにもなりました
松前藩は新政府側に帰順していましたが、明治元年、土方歳三・榎本武揚率いる蝦夷共和国軍(旧幕府軍残党)に攻められ、占拠されてしまいます
その際の激戦で多くの人命が失われました
城の石垣には艦砲射撃の弾痕が残っています
商場知行制度
松前藩は他藩のように米を売って利益とすることができなかったので、
代わりに海産物や交易品による収入で成り立っていました
家臣へも、アイヌとの交易地である「商場(あきないば)」を知行の代わりに与えます
それがそのままアイヌとの交易権ということになります
なので家臣も他藩から米などを仕入れ、アイヌと物々交換をし、これを売りさばくなどして生計を立てます
武士が商売上手にならなければならないという、特殊な藩だったといえます
ただしこの商場知行制度は、アイヌが松前藩城下に来ることを禁止し、
和人がアイヌの元に出向いて、和人主導で行われるため、取引の範囲が限定されてしまうなど
アイヌにとってはとても不公平なものでした
こうした高圧的な松前藩のやり方にアイヌ側も黙っておらず、1668年、
アイヌの首長のひとりシャクシャインが蜂起
これが鎮圧させられるとさらにアイヌへの締め付けは厳しくなっていきました
ちなみにこの松前藩統治時代にに商業都市として発展するのが、松前・函館・江差の三大港です
松前藩はこの三港に「沖之口番所(おきのくちばんしょ)」といういわゆる海の関所を設け、
積み荷のチェックや徴税を行い、船の出入りを統制しました
場所請負制
時代が進んで1700年代ごろになると、
商場の取引を専門の商人にまかせ、その代わりに商人から運上金(営業税)をとるという
ことをはじめる家臣たちが出てきました
これを場所請負制といいます
奴らは商売上手だし、任せとけばラクチンだし、運上金がかなりオイシイ…というわけです
そのため全国から名だたる大商人たちが蝦夷に支店を出します
そのうち商人間の場所取り競争は激化し、運上金は値上がり、蝦夷はビジネスの激戦地となります
請負商人たちは漁獲量増大のため、漁場の直接経営をはじめます
当時、西日本で盛んになった綿作の肥料としてニシンの需要が増大していたのです
商人たちの漁獲競争の過程で、アイヌや和人の漁民たちが労働力として酷使されるようになります
日本は島国で民族問題とは無縁と思いがちですが
松前藩を見るとき、和人とアイヌの間に横たわる問題を考えずには語れません
参考文献
「ビジュアル江戸三百藩」(ハーパーコリンズ・ジャパン)
「百科事典マイペディア電子辞書版」