今回は江戸の土地についての話
その前に前提として、
日本全国の土地は全部徳川幕府のものだということを押さえておきましょう
え??…大名が支配する土地は大名のものじゃないの?
という疑問も沸きますが、
大名が本当に所有しているなら、幕府の命令であっちへ領地替えだとか、領地没収だとか
なりようがありません
大名や旗本などは、幕府から土地の支配を任されている…認められてる…
という感じで捉えればいいでしょうか
なのでここでは回りくどいですが、そういうことを土地の所有という風に定義します
目次
武家地① 徳川家臣たちの土地
家康が江戸に拠点を置いたのは、豊臣秀吉が関東を支配する北条氏を滅ぼした1590年のことでした
家康がそれまで統治していた三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五ヶ国の代わりに、
北条氏が滅び去った後の関東に領地替えになったのです
家康による江戸における土地の分配はここから始まります
●上級家臣・旗本クラス
まずは有力な家臣や旗本クラスの人物には、江戸城の周囲に広い屋敷を与えます
ここでいう「屋敷」は建物のことを指すのではなく、土地のことで、「屋敷地」と言った方がわかりやすいかもしれません
(ちなみにこのとき井伊直政や本多忠勝などの重臣たちが関東の各地に何万石かの領地を与えられますが、それとは別の話で、今回は江戸における土地の話です)
例えば、今も残る東京の「青山」という地名はこの時、家康の家臣である青山忠成が賜った屋敷地に由来します
旗本といっても1万石~1000石未満とピンキリなので、
当然石高によってもらえる土地の広さはだいたい決まっていたようです
上級の旗本で2000坪前後、下の方でも500坪以下と、今の庶民感覚だとかなり広いお屋敷という感じですね
●御家人クラス
そしてそれ以外の下級家臣…つまり御家人とよばれる人達はその所属する組単位で屋敷地を与えられました
組屋敷とか、大縄屋敷などと呼ばれます
今でも地名が残る有名な八丁堀は、町奉行所で働く与力や同心の組屋敷があった場所です
だから時代劇なんか見ると彼らのことを「八丁堀」って呼んでたりするのはそういうことで、
スラングみたいなものです
与えられた敷地を人数で分けることになるので狭くなると思いきや、
中級の一般的な御家人で200坪ぐらい貰っている例もあり、
やっぱり今の日本の感覚だと広い
御家人たちは家禄も少ないので敷地内で野菜を栽培したり、内職をしたり
敷地に家屋を建てて人に貸したりと、土地活用は当たり前でした
町人たちの土地
家康は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの勝利後、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任命されます
ほぼ天下を手中に納めた家康は全国の大名を動員し、江戸の町と江戸城の大規模拡張工事を皮切りに
いわゆる天下普請を開始します
ここに日本史上空前の建設ラッシュが始まります
海を埋め立て、川の流れを制御し、石を積み上げ、建物もバンバン建てる…
工事を請け負う大名家や大名が連れてきた職人、労働者、
そして彼らに食料や物資を供給する商売人…江戸にはどんどん人が集まって来ました
そういった人達にもやはり住むところが必要なので、受け皿となる土地が必要です
この天下普請の前から町人地の整備は進められていました
商人や職人に土地を提供し、年貢を徴収しない代わりに、
物資や食料の調達や、物品の製造、労働力の提供を義務付けました
例えば早くから整備されたのが商人の町・日本橋、職人の町・神田です
職人の町には「紺屋町」「鉄砲町」「鍛冶町」など、その職種の名前がついたりするのでわかりやすい
職人を統括する立場の職人頭に広大な土地を与え、その配下の職人がそこに集まるため、
まとまった町になります
こういった名前のついた町は全国の城下町で見られます
後に触れますが、参勤交代制度により大名屋敷が建てられるようになると
武士の人口が増加します
そうなると彼らの生活を支えるため、商人・職人の需要はますます増大し、
町人の人口も増えていきました
そうして町人地も増え、三代将軍家光の寛永年間には約三百町に達します
(江戸中期にはこれの五倍以上になるのでまだまだ序の口)
その後、人口増加に伴い郊外の農地が徐々に宅地化されると
それまで代官支配だった村が
「街並地」(市街地)として、江戸に組み込まれます
ただしこれはもともと町人地として設定されたさきほどの三百町(「古町」と呼んだ)とは区別され、年貢の徴収は引き続き行われました
有名な本所深川なども1700年代初期には江戸に組み込まれ、町奉行支配になります
こうした街並地が増え、江戸の範囲はどんどん広がっていきました
武家地② 大名たちの土地
江戸における諸大名の土地といえば、大名屋敷ですが、
これらができ始めたのは参勤交代が制度化されてからではなく、
実は関ヶ原の翌年からすでにありました
関ヶ原後、各地の外様大名たちは家康への忠誠を示すために
こぞって江戸を訪れました
当初大名たちは寺院や町屋に宿泊していましたが、
慶長6年(1601)伊達政宗が江戸の桜田愛宕下(港区)に屋敷を下賜されました
これ以降、我も我もと屋敷を希望する大名が増え、家康は彼らに屋敷を与えていきました
そして競い合うようにして多くの大名屋敷が江戸に甍を並べることになったのです
参勤交代が制度化されると、大名屋敷はいよいよ増加していきます
●明暦の大火後
明暦3年(1657)、江戸の都市計画の一つの転換点となる大災害「明暦の大火」が起こり
江戸の大半を焼き尽くします
被害が大きくなった主な原因は建物が密集しすぎていたことでした
すると幕府はその反省から、川に橋を架けたり、通りを広くしたり、火除地(ひよけち)といって、町に広いスペースを設けて、防災対策を施すようになります
武家屋敷も江戸城近くに固まることなく、江戸郊外にも広く土地を割り当てるようになります
そうして大名屋敷にも上屋敷・中屋敷・下屋敷といった、一つの大名家が別の場所に複数の屋敷を持つということが一般化されていきます
上屋敷には現当主である藩主とその妻が住み、中屋敷には隠居した前藩主や世子(世継ぎ)、
そして下屋敷は別荘や避難所として使うなどの使い分けがされます
●拝領地は税金ナシ!!
こうした幕府から正式に拝領された土地(拝領地)には年貢は一切かかりませんでした
そりゃ欲しいわけです
とくに下屋敷はどの大名家も欲しくてたまらないので、
多くの下屋敷を持っていない大名が幕府に申請しますが、人気が高く、
土地の選定・審査などの事務も発生するので、
どうしても順番待ちになります
そもそも幕府としても年貢収入もない土地をこれ以上ホイホイと大名に与えたくないのが本音
そこで、待ちきれない大名のなかには、郊外の農民から土地を買うということをやり始める者も出てきます
これを「抱え屋敷」といいますが、
幕府から正式に拝領した土地ではないので年貢を納めなくてはいけません
それでも大名たちは土地が欲しいので、抱え屋敷はどんどん増えていきました…
これが社会問題になっていくのですが、
これについてはまたの機会に回したいと思います
そして最後に江戸における土地面積の割合ですが、
だいたい武家地が7割で、残りが町人地1.5割と、今回は触れませんでしたが寺社地1.5割程度だと言われています
これまで見てきた武士に割り当てられる土地の広さを見てもわかる通り、
江戸は武士ファーストの町なのです
これは武士を統制するという理由と、権力中枢である江戸を防衛するという理由がありますが
いくらなんでも偏りすぎだろうというのは現代の我々からみれば当然だろうと思います
とはいえ、当時は数百年も続いた戦の時代をようやく収めたばかりで、全く事情が違います
この「武士」という特殊な存在をいかにさばいていくかということを腫れ物に触るようにして考えていった結果このような比率になってしまったのかもしれません
参考文献
「江戸の武士 仕事と暮らし大図鑑」(廣済堂出版)
「江戸の不動産」安藤優一郎(文春新書)