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大名の引越しは大変!
映画「引っ越し大名」を見てきました
「超高速参勤交代」みたいな老若男女問わず楽しめるコメディタッチの時代劇で
かなり面白かったです
映画の中では及川光博演じる姫路藩の殿様、松平直矩(まつだいらなおのり)が、
幕府から豊後(大分県)の日田に国替えを命じられます
国替え…
いわゆる、大名家の引っ越しです
今で言うと、会社員の転勤・・・?
そんな生やさしいものではありません
簡単に「国替え」とか言うけど、
会社と違ってトップだけ入れ替えればいいというわけではありません
なんせ、武士の世界は主従関係で成り立っていますから、
ボスがよそに行けば子分はついてくるのです
幕府が巨大企業だとして、その支社が各藩だったとすると
支社の所長からヒラ社員とその家族まで全員そっくり別の場所に転勤!
…って言ってるようなものなので、
とてつもないことが江戸時代を通して何べんも行われていたということですよね
もちろん膨大な費用と手間がかかるというのは容易に想像できるでしょう
ではそんな大名の引っ越しの指示をなんで幕府は出すのか?
ポンポン出していいのか?
どういう時に引っ越しを命じられるのか?
など、多くの疑問が生まれてくるので、
今回はそんな大変な大名の引っ越し事情を見ていきたいと思います
転封
映画「引っ越し大名」のような、大名家が現在治めている領地から、別の領地に拠点移動することを「転封(てんぽう)」といいます(「国替え」「移封」などともいう)
幕府が転封を命じるのには、
・大名の治世に対する懲罰の意味
・政治的な意図
・国防上の都合
…など様々な理由からですが
その根っこの部分には
「全国の土地の所有権は徳川幕府にあり、大名は土地を幕府から与えられている」
という幕藩体制の根幹をなす概念がありました
それを思い知らせることが大事であり、それによって支配体制が固められていたのです
そして、国替えする当事者たちにとって一番重要なのは、行った先の土地の米の取れ高
…つまり石高です
例えば10万石の領地にいた大名が5万石の領地に国替えとなったら、
単純に考えて収入が半分になるので大打撃です
これは石高が減るので、減封(げんぽう)といって、なんらかの懲罰的な意味での国替えだったということが想像できます
映画「引っ越し大名」で松平直矩が言い渡されたのがまさにこれです
映画の中でも、今まで藩主に仕えてきた家臣に対しての大規模なリストラを行う場面があり、
コメディタッチな映画ではあるものの、さすがにここはシリアスな展開でした
改易
●大名の取りつぶしが相次いだ江戸初期
江戸時代初期は、徳川幕府の潜在的な敵である外様大名を江戸から遠ざけるなどの、政権の地盤づくりが急務でした
それは一応徳川が全国統一をしたものの、ひとたび気を許せばすぐに戦国に逆戻りしてしまうかもしれないという、微妙な時期だったため
軍事力を背景に強引ともとれる態度で進められました
これを「武断政治」といい、幕府開設から三代将軍家光までが顕著で、
江戸の周囲の国々や、全国の重要地点、金山・銀山などの資源が採れる場所などを
譜代大名領や幕府直轄領(代官支配)に変えるため
そこにいた大名を転封させます
転封ですめばいいんですが、
「改易(かいえき)」が多く行われたのがこの時期です
改易は、国替えや石高が削られるなどという生ぬるいものではなく、
領地・城・屋敷地の没収!
武士身分の剥奪!
という厳しすぎる処置
つまり、大名家の取りつぶしです
●改易の理由
理由として多いのが無嗣断絶(むしだんぜつ)
大名が死んで、跡継ぎがいない、または跡継ぎを定めていない
こういうことになると、「将軍に対するご恩を忘れた」ということになり…
要するに、「生前にそんなことも決めてないなんて怠けている、けしからん!」と言ったところでしょうか
これは徳川一門だろうが譜代大名だろうが容赦なく改易させられました
でも、ちょっと待って下さい
そんなこと言ったって、大名家は跡継ぎを残す努力はしてるんです
でも、殿様の正室より先に側室が子供を産んでしまったりした場合
まだ後から正室が子供を産むかもしれないのに、側室の子をすぐ跡継ぎをに指名するわけにもいかないでしょう
そういう難しい立場をおもんばかってくれるほど幕府はお人好しではないのでした…
そしていよいよ切羽詰まった時です
「藩主が死にそう、でも跡継ぎがいない、そうだ養子をとろう!」
そんなギリギリになって苦し紛れに養子を入れるのを「末期養子(まつごようし)」といいますが、これも幕府は一切認めませんでした
あまりにも厳しいため、慶安4年(1651)には解禁されました
その他の理由は色々です
ルールを破ったとか
お家騒動により、管理不行き届きを言い渡されるとか
藩主の素行不良とか、藩主が狂乱したとか…
「狂乱」とか「発狂」とか、結構そういう理由付けをされている例があるようです
人間そんなしょっちゅう発狂することなんてないだろって思いますよね普通
●どのぐらいの数の大名が改易されたのか
江戸初期の改易数を見ると、
二代・秀忠期・・・55家(一門2・譜代16・外様37)
三代・家光期・・・57家(一門2・譜代16・外様39)
四代・家綱期・・・26家(一門1・譜代10・外様15)
五代・綱吉期・・・45家(一門6・譜代22・外様17)
(参考・白峰旬「江戸大名のお引越し」)
となっており、その後は明らかに激減するので
初期の方針として、イチャモンに近い理由をつけてバンバン改易した例もあったでしょう
意外と譜代大名も改易されているのがわかります
その後幕府は力による支配から「文治政治」へと徐々に方針転換をし
改易の数は減りますが
それまでは大名家にとっては戦々恐々とした時代だったことでしょう
●改易の具体例 ~熊本藩加藤家二代目の悲劇~
最後に具体的な改易の例を見てみましょう
熊本城で有名な加藤清正・・・の三男の加藤忠広という人物
加藤清正はいまや超有名人ですが、その死後の話はあまり語られません
慶長16年(1611)、清正が急死したため、
急遽跡を継ぐことになったのが若干11歳の加藤忠広でした
彼はまだ幼く、将軍に相続人としての謁見を果たしていなかったため、
相続を認められない可能性がありました
そのため、重臣が家康に直接嘆願
支城の破棄や、幕府による人事介入などの様々な条件をつけて相続が認められました
その時の条件によって加藤家の政治は幼い藩主を補佐する家老5人の合議制にすることと決められてしまいます
その後、家老たちの派閥争いが起こり、
のちに「牛方馬方騒動」と呼ばれるお家騒動に発展します
この「お家騒動」、有名家具メーカーの父と娘が対立したとか、
今でもそこらで起こっているであろう人間のサガみたいなものですが、
幕府はこういうことにことさら目を光らせます
この権力争いは徳川秀忠の判断を仰ぎ、一応が決着がつき、
藩主にもお咎めはありませんでした
しかし秀忠死後、家光が将軍になると突然改易させられてしまいます(あんまりだ…)
理由は諸説あってはっきりしないようですが
このお家騒動により加藤家の信頼が著しく低下していたことも無関係ではないのかもしれません
とにかく江戸時代初期はこうして、豊臣恩顧の外様大名たちが
何かと目をつけられ、改易の憂き目にあう時代でした
参考文献
「江戸大名のお引越し」白峰旬(新人物ブックス)
「身につまされる江戸のお家騒動」榎本秋(朝日新書)