今回は引き続き「越前松平家」です
北陸の大藩として誕生した徳川の名家にいきなり降ってかかる困難を見ていきましょう
目次
結城秀康、早すぎる死
家康の次男結城秀康の越前松平家は徳川の血統という超別格のスーパー大名として誕生しました
しかしせっかく大藩の殿様になれた秀康は慶長12年(1607年)病でこの世を去ります
34歳という若さでした
秀康は武張った面もありますが、経験豊富で
周りの評判もすこぶる良い優秀な人物だっただけに
脂ののっているこの年齢で死んでしまったのはとても残念です
秀康の跡を継いで二代藩主となったのは長男の忠直(ただなお)でした
この人からは確実に「松平」姓を名乗っています
二代藩主 松平忠直
●期待の二代目
普通、江戸時代に入ってからの藩主の二代目なんて
歴史的にそうそう注目を浴びることなどないですが、
この松平忠直という人は結構な有名人になってしまいました
ただし悪い意味でです
松平忠直は将軍秀忠の娘、勝姫を正室として迎え入れるなど
さすがの好待遇で、普通にやっていれば前途は明るいものだったに違いありません
が・・・・・・しかし
●大坂の陣
忠直は若く、初陣は戦国最後の戦である大坂城の戦いでした
冬の陣では真田信繁(幸村)の守る真田丸からの猛攻を受け多大な被害を受けますが
夏の陣でついに真田隊を撃破します
忠直が期待したのは当然、恩賞としての領地の加増でした
家康は忠直の戦功を讃え、ほうびとして名物「初花」の茶入れを与え
官位を従三位「参議」に昇格させますが
肝心な領地の加増は「追って伝える」といった曖昧なものでした
そしてそのうち家康が亡くなり、この約束は口約束となり、
結局加増はありませんでした
家康の本心は今となってはわかりませんが
忠直は、冬の陣で命令もないのに動いたり、
夏の陣では伊達軍が苦戦していたのに援軍を送らなかったりと
不手際をさらしてしまっており、
内心ではそう高く評価していなかったのかもしれません
秀忠にしても大坂で戦った全大名に気を配らなければならないので、この際身内の藩は我慢してもらおうかなどと考えたかもしれません
(想像ですけど)
しかし本人にとっては一大事
秀康の武人としての気性を受け継いでいる若い忠直、
「戦に出て恩賞を受けるのが武士の誉れ」と頑なに思っていたのか
やはり相当なショックを受けたらしく、この辺りから幕府に対する不信感が生まれ
行動がおかしくなっていきます
●数々の不祥事
その後の忠直は、藩政をおろそかにし、江戸への参勤の義務も怠るようになったといいます
忠直の乱行については後世色々誇張して書かれることもあるのですが、
一部は作り話だとしても、
諸大名の間でも彼の行動は有名になっており、書状に残っていたりと
確実に評判を落としていったようです
そして決定的な事件が起きます
彼は女性関係が派手で、
秀忠の娘である正室、勝姫と夫婦仲は悪くなる一方でした
そしてついに忠直が勝姫の暗殺を企てたらしく、
その身代わりとなった側近の奥女中を斬ってしまったというのです
ここまでやってしまえばもうおしまい
元和9年(1623年)秀忠は忠直の母を間に立てて、改易の沙汰を言い渡します
忠直は強制的に隠居させられ、豊後国府内藩(大分県大分市)へ配流のうえ謹慎処分となります
●忠直キリシタン説?
忠直をかばうとすれば、
藩主としてはそこまで悪い政治は行っていなかった
むしろちゃんとしていたのではという話もあります
鳥羽野(福井県鯖江市)では原生林が広がる地を開拓
治水・新田開発・街道整備を行い、免税により新規移住者を呼び込みます
これが今の鯖江市の発展につながっており
市内の八幡神社と琵琶神社には、秀康・忠直父子が神様として祀られています
こういう事実もあるので、松平忠直の人格について「これだ」というレッテルを貼ってしまうのは難しいことだと思います
(誰にでも言えることですけど)
しかしそういったものを全てひっくり返してしまいかねないのが「忠直はキリシタンだった」という説です
元和6年(1620年)イエズス会宣教師が金沢滞在中の記録に
「金沢で将軍の従兄弟に洗礼を授けた」
とあり、それが忠直を指すのではないかというものです
それを隠すために幕府が数々の不祥事をでっち上げたということですが…
忠直はべつにこの時の将軍である秀忠の従兄弟ではないですしね……
ではその洗礼を受けたのは誰だという疑問も沸いてきて
正直謎すぎてさっぱりです
忠直の処分理由についてもどこまでが真実なのか…
幕府創設初期の話ですから、多くの闇に葬られた事実もあるのかもしれません
忠直去って、分家ラッシュ
●松平忠昌が三代藩主に
普通改易といえば藩の取りつぶしを指すのですが、
この越前松平家はさすがに徳川の身内、特別扱いでして、
忠直ひとりが改易させられたと考えればよいでしょうか
越前松平家自体がなくなることはありませんでした
秀忠により跡継ぎは忠直の嫡男、9歳の仙千代(のちの松平光長)に決定していましたが
方針転換により、
忠直の弟である越後高田藩主の松平忠昌が三代目藩主に抜擢されます
重要地点である福井をまかせるには幼すぎるという判断です
ちなみに仙千代(のちの松平光長)は忠昌と交代で高田藩主(26万石)となりました
(こちらは後半で詳しく)
●そして、分家
そして、越前松平家ではいくつかの分家が分かれ独立します
まとめるとこうなります
越前国
★松平忠昌・・・結城秀康次男・高田藩主 ⇒福井藩50万石
●松平直政・・・結城秀康三男 ⇒大野藩5万石
●松平直基・・・結城秀康五男 ⇒勝山藩3万石
●松平直良・・・結城秀康六男 ⇒木本藩2.5万石
●本多成重・・・福井藩付家老・丸岡城主 ⇒丸岡藩4.6万石
そして藩領の西端、敦賀郡が若狭国小浜藩に割譲されます
越後国
★松平光長・・・松平忠直長男 ⇒高田藩26万石
こうして見ると結城秀康、結構子宝に恵まれています
そして丸岡城は現存する天守が残っていることで今も有名ですね
幕府としても越前松平家の存在がでかすぎて扱いづらいということもあったのではないでしょうか
これを期にある程度分割してしまおうという考えだったかもしれません
本家は68万石から50万石になりました(それでもかなりの大藩に変わりはありませんが)
次回はいよいよこの分家の一つから映画「引っ越し大名」の松平直矩が登場
幕府から言い渡された転封、実際のところはどうだったのか…
という問いに迫ってみようと思います
おまけ
松平忠直を扱った小説で最も有名なものは間違いなく菊池寛の「忠直卿行状記」でしょう
大正七年に発表された古い作品で、創作の占める割合も多いですが
松平忠直という一人の人間の狂乱と孤独を描いた名作として今でも有名です
自分はちょっと昔にたまたま買った「迷君に候」という
バカ殿を扱った小説を集めたアンソロジーで読みました
しかしこの本、表紙の絵がギャグっぽいのでそういうのを期待して買ったら
内容は全部「そういうのじゃねーから」って感じでちょっと騙された感があります
(表紙に池波正太郎とか柴田錬三郎って書いてある時点で気づけって話ですが;)
参考文献
「ビジュアル江戸三百藩」(ハーパーコリンズ・ジャパン)
「身につまされる江戸のお家騒動」榎本秋(朝日新書)
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