【江戸300藩】福井藩 越前松平家③ ~映画・引っ越し大名の実像~

目次

福井藩の分家ファイブ

前回、2代目藩主松平忠直の不祥事によって
大きくその運命が変わることとなった越前松平家

そして分家により1624年、五つの藩が誕生しました

今回、まずはその福井藩分家ファイブを見ていきましょう


①越後高田藩

これはもともとあった藩です
現在の上越市にあたり、天下普請によって築城された近世城郭「高田城」を政庁とします
このことからも家康がここを重要視したのがわかります
古くは上杉謙信が本拠地とした春日山城があり、
良港、直江津のある海の玄関口でもある要衝です

とはいえ、越後だから新潟県……福井からは遠いです
グーグルでざっと調べても特急、新幹線乗り継いでも3時間ぐらいかかります

この藩は、結城秀康以上にマイナーな家康の6男松平忠輝が任された地でした
その後彼もすぐ改易させられてしまいます
これもまたかという感じで、陰謀説など諸説あって面倒なのでここでは説明は省きます

その後酒井家が藩主の短い期間を経て、
前回書いたように、松平忠直の弟、松平忠昌が治めていました
そしてこれも前回書きましたが、1624年、松平忠直の長男松平光長と藩主交代ということになったのです

なので分家とは書いたものの、血筋でいえばこちらのほうが上ですから
こっちが本家とも言えるわけですが、
この辺は考え方の違いで色々あるようなので微妙なところです

10歳という若さで藩主となった光長でしたが、
その藩政は長く、二人の家老、小栗高正と荻田隼人が主導する形で
順調に行われていました

しかし……

越後高田城

高田城 masamasaGTさんによる写真ACからの写真

②大野藩

福井市をながれる九頭竜川を南東に山の方へさかのぼると盆地の町、大野市にたどり着きます

ここはなんといってもその藩政の中心である「大野城」が有名
山の上に築かれた天守(昭和に再建されたもの)がまるで雲海に浮かんでいるように見えるというので近年じわじわと人気が出てきている城です

大野城公式ホームページ

ここは元々福井藩領でしたが、忠直の弟で結城秀康の三男松平直政が分家して誕生します

しかし直政は10年ちょっとで信濃松本藩へ転封
代わりに、これまた先の分家によりできた勝山藩から弟の直基が入ります
そしてまたまた10年足らずで出羽山形へ転封
代わりに、これまた先の分家によりできた木本(このもと)藩から弟の直良が入ります
そしてようやく直良の息子が藩をついだと思ったら4年で播磨明石へ転封
大野藩はその後幕末まで土井家が治める地になります

なんだか、分家でとっかえひっかえ藩主を入れ替えさせられて…
この辺からなんとなく「引っ越し大名」…という単語が頭をよぎります

大野城

大野城 丸岡ジョーさんによる写真ACからの写真

③勝山藩

大野市の北に位置する盆地が勝山市です

大野市と勝山市は「奥越前」と呼ばれる山に囲まれた地で
航空写真で見ると福井や鯖江などから明らかに分断されている地域なのでわかりやすいです
ここは越前における白山信仰の中心的な場所でもあります

そして現在、勝山城には立派な天守閣が……
と思いきや、勝山城博物館という全然関係ない天守風の建物が全然関係ない場所にあるそうなので注意
(本物の城の場所は市役所になってるようです)

という余談はさておき、前述のように分家により初代藩主となった松平直基
大野藩へ行ってしまいます
代わりに入った直良も、やっぱり大野藩へ行ってしまいます

そして福井藩の預け地(幕府領地だが福井藩に管理を委託)→幕府領を経て
小笠原家が幕末まで治めることになります

④木本藩(このもとはん)

地図で見ると大野の市街地から南の山側に木本という地名があります
この辺りを結城秀康の六男松平直良が治めることとなりましたが、
先述のとおり直良は勝山に行ってしまい、わずか11年で廃藩
マニアックすぎる藩になってしまいました

⑤丸岡藩

越前松平家の分家ではありませんが、松平忠直の付け家老だった丸岡城主本多成重が、
福井藩から独立する形で立藩しました
そういうパターンもあるということですね

本多氏は三河ではかなりメジャーな氏族ですが
家康の家臣として有名な本多忠勝、本多正信とも違う家系で、
鬼作左として知られる本多重次の息子になります
本多重次が長篠の戦いの陣中から妻に送った短すぎて有名な手紙
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙」てのが本多成重です
(幼名を仙千代という)

ともかくこれで成重は「将軍の直臣」になったということです
忠直の件で連座して罰せられなかったどころか、殿様に昇格するところをみると
幕府にとっても優秀で信用に足る人物だったのではないでしょうか

この丸岡藩本多家は、4代目の暗愚な藩主が結構なお家騒動を起こし改易、
その後は有馬家が幕末まで統治します

丸岡城

丸岡城 たかやんさんによる写真ACからの写真

越前松平家の分家は江戸時代を通して(丸岡を除いて)合計8家にもなります


松平直基とその子直矩

ここでようやく、この記事を書くきっかけとなった松平直矩の話をしたいと思います

先ほどの分家のうち、③の勝山藩松平直基という人物がいました
直矩はこの人の長男として1642年(寛永19年)に生まれます
なので生まれたのは直基が大野藩主を勤めていた時でした

その後直基は1644年(正保元年)山形へ転封になります
ついに越前と全く関係ない土地への転封です
しかしこの国替えは大野藩5万石から、山形藩15万石なので、大幅な加増
山形は徳川家光の弟で会津の名君として有名になる保科正之が治めていた藩でしたが
会津へ加増転封したため、そのあとを受けてのことでした

この辺はさすが徳川ブランドの越前松平家といったところです

そしてさらに1648年(慶安元年)、姫路へ転封になります
映画でも語られたように、直基はこの引っ越しの途上発病し、亡くなりました
そして跡継ぎである直矩が姫路藩主と
・・・なるかと思いきや、
直矩が5歳と幼少だったため、要衝である姫路をまかせるには不適切と判断され、
翌年には越後村上藩に転封
ですが、1667年(寛文7年)ちゃんと姫路に戻ってきます

ようやく、映画「引っ越し大名」の舞台と繋がりました(長かった…)

松平直矩

こうして見てみると、映画では父の直基も引っ越しを多く繰り返したとか
引っ越しは金がかかって大変だという負の面が強調されていましたが、
松平直基は加増されていますしね…

でもお上の命令ひとつで故郷を離れなければならない直基の心中はどのようなものだったのでしょう
最後の国替えの途上に45歳の若さで亡くなってしまったのもストレスを貯め込んでいたのではないかと想像してしまいます


大事件「越後騒動」

●お家騒動はじまる

それは松平光長が治める越後高田藩で起こりました
江戸時代でも有名なお家騒動「越後騒動」です

松平光長は自身の子の松平綱賢を後継者として指名していました
しかし、綱賢は1674年(延宝2年)病死してしまいます
そのため、新たに後継者を立てなくてはなりません

光長には他に男子がいなかったので、
筆頭家老として藩政を一手に担っていた敏腕政治家、小栗美作(正矩)
光長の異母弟である永見長頼の遺児、万徳丸を後継者候補として推挙します

しかしこれを良しとしないもう一人の家老、荻田主馬
光長のもうひとりの異母弟(そして永見長頼の弟)永見大蔵を推挙

そして重臣たちの話し合いの結果、
美作が推す万徳丸が後継者に決定し、万徳丸は元服して松平綱国と改名します

めでたしめでたしと、ここで終わっていればよかったのですが…


●アンチ小栗派大暴走

この決定に荻田主馬と永見大蔵は大激怒

小栗美作に普段どれだけ不満を募らせていたのか、
反小栗派900名を集め、激しく対立したのです
「小栗美作は自分の息子(※小栗美作は藩主光長の異母妹を妻にしていた)を藩主に据えようとしている!」
などとメチャクチャなことを言ったり、何でもいいから美作追い落しに躍起になります
そして1679年(延宝7年)、小栗邸が襲撃される事態にまで発展します
武装した反小栗派が小栗邸を取り囲んで一触即発の状況でしたが、
小栗美作は屋敷に立てこもり挑発には反応しなかったため、これ以上の騒ぎにはなりませんでした

ですが異常事態には変わりありません
これは光長が国を離れていた時の出来事でした

自分で事態を収拾することができぬ光長……
普段から懇意にしている幕府の大老酒井忠清に騒動を報告し、裁定を求めました
忠清は大目付に命じ調査をすると、永見大蔵・荻田主馬ら5名を江戸に呼び出し、他藩にお預けという裁定を下します
これにより小栗美作が勝利したわけです

しかし、これでは終わりませんでした
光長にとっての本当の恐怖はここからだったのです…

越後高田城

高田城 ki3cさんによる写真ACからの写真


●徳川綱吉の復讐!?

1680年(延宝8年)、江戸では将軍徳川家綱が病死
家綱には男子がいなかったので、ここでもまた後継者問題が勃発します

先ほども出てきた幕府の大物、酒井忠清は後継者になんと、
皇族の有栖川宮幸仁親王を推挙したといいます
(これを否定する学説もありますが)
この幸仁親王、実は松平光長の妹が母親でして、だから一応徳川家の血を引いているのです
そして忠清と懇意にしている松平光長、ついでに松平直矩もこれを支持したといいます

これまでのことでわかる通り、松平光長というのは、
ズブズブの酒井忠清派で、松平直矩もおじさんの光長に便乗している形になっています

この宮将軍擁立計画は実現せず、老中堀田正俊らが推挙した館林藩主松平綱吉が時期将軍となります
綱吉は徳川家光の四男で、上の兄弟は死去してますから、わざわざ宮家から将軍を迎えるより
自分が将軍になるほうが自然だと考えるでしょう
それにもかかわらず、自分を差し置いて宮家から将軍を出そうとした(この説が本当だとしたら)酒井忠清派の連中に対しては心中穏やかならぬ思いを募らせていたことでしょう

とにかくこうして五代将軍に就任した徳川綱吉の時代が始まります

徳川綱吉

ウィキペディアより 徳川綱吉像(徳川美術館蔵)

酒井忠清に並々ならぬ不満を募らせていた綱吉は
あろうことか越後騒動を蒸し返し、将軍自ら裁定のやり直しを行います
そして、小栗派・荻田派、両成敗という判決を下し
小栗美作と息子の小栗掃部は切腹、荻田主馬と永見大蔵は八丈島へ島流し
松平光長は改易のうえ、伊予松山藩へお預け
という、私怨丸出しの激烈な処分を下します

「生類憐みの令」も最近は福祉政策のはしりだとして見直されてはいますが、
やはり徳川綱吉…恐ろしい男です

そして忘れてはいけないのが、松平光長という人は「家康の次男の直系」という
尾張・水戸・紀伊の御三家すら上回る血筋を持って生まれたということです
幕府が結局は、こんなよい血統の一族が目障りだったから
ついでに言えば小栗美作の息子にすら家康の次男の血が流れている…
これを期に潰してしまえと本気で考えていた
とすれば、
まさに恐るべき仁義なき戦い
名門すぎる家に生まれるのが幸せとは限りません…

これにより越後高田藩における越前松平家の統治は終焉を迎えました


●とばっちり大名松平直矩

そして、この件にちょっと絡んでいる松平直矩
そう、「引っ越し大名」です

実は彼も綱吉の怒りを買ってか、このとき姫路15万石から日田7万石に減封処分になってしまいました

越後騒動の時には姫路藩主になっていた彼は、親類とはいえよその藩のことなのに、
騒動の調停をやっていたようです
それがうまくいかなかったからという理由ですが、これはあんまりです
光長とともに酒井忠清と懇意にしていたからでしょう

つまり松平直矩が被ったのは完全なとばっちりといえます

これが実際の「引っ越し大名」の引っ越しさせられた理由です

映画ではもっとわかりやすくてバカバカしい理由で転封させられるのですが、
それはまあ、半分フィクションの半分コメディ映画なので、
史実と違うぞと言って文句をつけるのはヤボな話です
しかし、その上で実際はどうだったのかというのを調べてみると
色々な事実が見えてきて面白いです

松平直矩はその後、映画でも言及されたように日田から山形、白河と転封を繰り返し、
「引っ越し大名」と呼ばれるようになります

ちなみに本家福井藩は、分家や一橋家などから養子を入れながらもなんとか越前松平家の命脈を幕末まで保ちました


映画「引っ越し大名」の実際はどうだったのかを調べる試みは以上となります
こんなに長々としたものになるとは思いませんでした…


おまけ

「雪に咲く」村木嵐(PHP文芸文庫)

なんと越後騒動の中心人物、小栗美作正矩が主人公の小説がある!
小栗美作は創作では悪役にされることが多いそうですが、
この小説は小栗の視点で描かれる話のようです
越後騒動に興味を持ったら読んでみてはいかがでしょう


参考文献

「ビジュアル江戸三百藩」(ハーパーコリンズジャパン)
「身につまされる江戸のお家騒動」榎本秋(朝日新書)


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