江戸時代と言えば大名行列…
というわけでこれについてはこのブログでも取り上げてなくてはなりません
今回は江戸時代を象徴する制度「参勤交代」です
今考えても独特な制度で、
世界でも地方領主が王様に拝謁しに行くことはあっても
一年ごとに領地と江戸を行ったり来たりしろなんて「何言ってんの?」
と、知らない人が聞いたら驚くのは必定
こんな制度ができたのはなぜか、そして何の目的があるのか…といった基本的なことを
見ていきたいと思います
目次
参勤交代の基本
●武家諸法度の改定
参勤交代は3代将軍徳川家光が寛永12年(1635年)武家諸法度の改定を行った際に、制定されました
はっきり明文化されて「制度」になったということです
すなわち
「一、大名・小名、在江戸交代、相定むる所なり。毎年夏四月中参勤致すべし。従者の員数近来甚だ多く、且つ国郡の費、且つ人民の労なり。向後、其相応を以て之を減少すべし。但し、上洛の節は教令に任せ、公役は分限に従ふべき事。」
結構アバウトですけど、有名な条文です
毎年4月に来いと言ってることと、
お前らはいつも従者を連れてきすぎるからもっと減らせ、人民の負担になるから
ということを言っているのに注目です
「但し、上洛の節~」に関しては、ちょっとわかりにくいんですけど、
上洛は京都へ行くことですから、
例えば将軍が天皇から宣下を受けるために諸大名を含めた大軍を率いて行くときなどのことです
その際はこれまでの規定通りにちゃんと人数を揃えることと、身分に応じた役割を果たしてねと言ってます
つまり上洛の際の人数等の規定はすでにあったということです
なので参勤交代の際の人員の数も上洛のときの軍役規定があったからそれに準じていたと考えられますが、江戸に来る場合は必ずしもそれに合わせなくてもいいということで、むしろ多くなっているから減らせと言っているのです
(ちなみに上洛は家光の将軍宣下を最後に幕末まで行わることはありませんでした)
これを読むとどうもそれまでにも普通に参勤交代は行われていたの?…ということに気づきます
この頃にはもう、こういうことをやるのは大名の常識に近かったのです
●譜代大名・関八州の大名への制度化
この制度が制定されても対象にならなかった大名もいました
それはなぜかというと、
譜代大名と、※関八州の大名は、江戸に常駐していたからです
(※関八州の大名というのは江戸から近い関東の大名で、譜代も外様もいた)
だからルールができても、「僕らには関係ないよね」ということだったのです
ですが彼らにも寛永19年(1642年)から、寛永飢饉の対応のため国許に帰り政務を行うことが命じられたのを皮切りに、段階的に参勤のルールも決められていきます
参勤交代は一年ごとというイメージがありますが、関八州の大名など半年交代の藩もありました
そして水戸徳川家など、引き続き江戸常駐のため参勤は関係ない藩もありました
さらに細かいことを言うと松前藩と対馬藩は三年に一度(のちに五年に一度)
と、なかなか色々あります
しかしほとんどの藩は一年ごとと考えればいいでしょう
●ルールのまとめ
これまでの慣例とルールをまとめます
例外もありますが、大名たちは次のようなことをやっていました
・大名は定められた時期に江戸に参府、江戸にいた大名は暇を与えられて国許に帰る。これを原則として一年交代(藩によっては半年交代)で繰り返す
・大名の妻子は江戸に在住する
・大名には江戸に屋敷地が与えられる
・事情によって人員の数を減らしてよい
・老中や若年寄など幕府の要職に就いている大名は参勤しなくていい
(そもそも在職中はずっと江戸にいるから)
・来なければ罰せられる
だいたいこんな感じです
では、こういったルールができていったそもそものきっかけを見ていきましょう
これを理解することは参勤交代、ひいては武士の政治スタンスを理解するための役に立つはずです
参勤の歴史
●顔見せは基本
そもそも武家の家臣が軍役などで主君のもとに赴いて、
それが発展して主君の近くに屋敷を構えて集住するといったことは
鎌倉~室町にかけても行われました
戦国大名も同じで、家臣を本城に参勤することを義務付けたりしていました
このことが何を意味するのかといえば
連絡を密にするという意味もありますし
人間、しばらく顔を見ないと不安になるというのもあるでしょう
しかし一番は上下関係をはっきりさせる「服属儀礼」だというのが根底にあります
●秀吉に会いに行く!
江戸時代の参勤交代制度の直接的に繋がるのはやはり豊臣秀吉でしょう
秀吉は天下統一の過程で、「天皇の名において戦争を停止することを命じ、紛争の解決は秀吉が行う」(講談社現代新書「参勤交代」山本博文 より抜粋)としました
いわゆる「惣無事」という言葉で理解される紛争停止命令です
当時最も力を持っていた秀吉だから言えることで、
その辺の小さな大名が「天皇の名のもとに…」と言ったところで「なんだテメエ」となってしまいます
その際、相手を滅ぼすのではなく、自分の元に来させて服従をさせる
これを「御礼に来させる」といいます
自分のもとに来させるということが重要なのです
逆に来なければ討伐するということで、
島津や長宗我部などは敗北し、領地を減らされてしまいました
北条などはもっと酷いことになりました
徳川や上杉など、秀吉のもとに「御礼」に来た大名は無駄な犠牲を払わないですみますが
秀吉政権に組み込まれ、秀吉の家臣になります
秀吉の家臣になった大名は、秀吉の本拠地である伏見・大坂に屋敷地を与えられ、
妻子も上洛させ、実質的には豊臣政権への人質とします
これを見れば、江戸時代の参勤交代と似たことが行われていたというのがわかります
天下人の圧力から大名が身を守ることから始まったのです
とにかく秀吉の惣無事令には理不尽な面もありますが、同じ民族同士なるべく犠牲を払わず乱世を治める転機になったことは間違いありません
●家康に会いに行く!
その秀吉の死後は状況が少し変わってきます
秀吉は全国を統一したものの、持続的で強固な政権基盤を作れたかといえばノーと言わざるを得ません
次の天下人、家康が台頭できたのがその証拠です
家康が関ヶ原の戦いで大きく力をつけると
大坂の秀吉の遺児秀頼との力関係が微妙なことになり、
名目上の天下人である秀頼と、実際に天下をひっくり返す勢いの家康と
二つのトップが両立する事態になりました
そうなると、言い方は悪いのですが、大名たちが家康にコビを売りに来ます
そう、「御礼に来る」ということが自分たちの今後の安全の保障なのです
こういうことが秀吉時代からの慣例になっていたのです
実際、関ケ原の前ですら自主的に自分の息子を人質として江戸へ送るという動きが出ています
これが、家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開くと
諸大名は次々と江戸へ参勤を行うようになります
その際江戸に屋敷地を与えられたり、米を下賜されるなど優遇策もあったので
そのことも諸大名が参勤する後押しになりました
しかしこの頃はまだ大名たちは大坂の秀頼にも参勤を行っており、
西国大名などはまだ江戸への参勤は定例化していませんでした
そしてついに慶長16年(1611年)豊臣秀頼が、徳川の京都での拠点二条城に赴き、家康と会見
これまでの事例でわかる通り、このことをもって豊臣は徳川へ臣従したということになります
この時同時に家康は、三カ条の条々を示し、諸大名に江戸の将軍秀忠から出される法度を堅く守るように誓わせ、署名させました
戦国最後の大坂城の戦いをやるやらないは関係ありません
ここで豊臣の天下は終わったのです
●ストレスに悩まされるぐらいなら…
その後、大坂の陣で豊臣が滅亡後も諸大名は継続的に参勤を行います
東国の大名などは距離が近いので気軽に(気軽じゃないけど)来れますが
西国大名は距離が遠いので……など
各々の事情と政治的判断やら幕府の指示を仰いだりして決めていました
別に法律があるわけではなく、大名が自主的に来てるだけなので当然ですが…
「そんなに幕府が怖いのか」と言われれば、多分怖いんでしょうね
何が起こるかわからないし、
みんな行くから行かないわけにはいかないというのもあります
そういうピリピリした時代でもありました
そうなってくると大名の立場になって考えた時
世の中の情勢によっては「行った方がいいのかな…」とか
「今年は早めに行った方がいいんじゃないか…」とか
判断に困る場合があります
実際大名たちが、どうすればいいのか幕閣に相談している事例もあります
これは大名たちにとって物凄い負担になることは想像に難くありません
そこで……
もう勘のいい人はわかったと思いますが
そう、いっそのこと「制度化」してしまえばいいのです
こうして将軍家光の寛永12年(1635年)、武家諸法度の改定で先述の参勤交代を制度化する文言が記載されました
このことについて山本博文氏の著書「参勤交代」ではこれ以上ない説得力のある説明をしていますので、引用して紹介します
「もちろん、この頃にはすでにこのような体制がほぼ固まっていた。しかし、このように明文化して発布されたことの意義は大きい。大名たちにとって参勤交代は、伺いを出して許可された上で参勤し、次にはいつ国許に帰れるかわからない、といった状態だったから、制度として確定することのメリットははかりしれない。」(講談社現代新書「参勤交代」山本博文 より抜粋)
●理由を考えてみよう
おわかりいただけたでしょうか
「参勤交代」という今にしてみれば奇妙なものは、急に始まったわけではないのです
この経緯だけ見ても、よく参勤交代が行われる理由を説明するときに言われる、「大名に金を使わせて力を削ぐため」というのは、まるで話にならないということがわかるでしょう
こんな結果しか見ないで多角的な視野を欠いた説明が教科書でなされていたのが不思議でしょうがないんですよね
●参勤交代の副産物
とはいえ参勤交代に金がかかり財政が圧迫されるのは事実
それでも大名たちは見栄を張って行列を華美に見せて他家と競い合います
しかし参勤交代が日本に及ぼした影響はかなり大きいと考えます
まず、これは幕府の意図とも一致しますが、
こうして主従関係を常に明確にし、大名を統制しておけば戦は防げるということです
幕末までは持ちませんでしたが、240年の太平の世を支えた大きな要因の一つです
副次的なものとしては、日本全国の人と情報と技術の交流が爆発的に増えることです
全国の大名が江戸という百万都市の情報を国許に持ち帰れば自国の発展に活かすことができます
行き来する道々の情景や産物を見ることによって、認識する世界が広がります
また、多くの人が行きかうため道を広げ、街道を整備し、商売人が集まります
まだまだ遠くへ旅をするには制限があった時代ではありますが、
旅をする意識のハードルはかなり下がったといえます
日本はその後、欧米列強の進出により、近代国家として「日本」という統一国家の共通認識を持たざるを得ない時代を迎えますが
参勤交代はその素地作るのにかなり貢献したといえるでしょう
しかしながら、財政や江戸にずっと住まわされる妻子のことを考えれば
なんでこんなことやらにゃあいかんのかなとも思います
ホントはこんなことをしないでも人々が平和に交流できる世界ならいいのですが
おまけ
●大名行列への土下座に関する誤解
大名行列が来たら必ず土下座しなければならないというのは
江戸時代に関して昔から誤解されていることのド定番です
一般の人々が土下座しなければならなかったのは
将軍家と、御三家の尾張徳川家と紀州徳川家のみ
ちなみに同じ御三家の水戸徳川家は藩主が常に江戸在住なのでそもそも参勤がありませんでした
人々にとって大名行列はおもしろいので見物するのが娯楽みたいになっていました
マニアのような人はどこそこの藩の人数がどうとか、豪華だったとか、あの藩に比べてどうだとか
話のネタにするでしょうから、大名家は見られるという意識が物凄く強い
幕府が「人数が多すぎる」とか「華美は控えろ」と言ったところで、見栄っ張りの武家にはあまり効果がなかったのも頷けます
●参勤交代制度化に関わった外様大名・細川忠利
参勤交代の制度化においては、実は大名の意見が取り入れられたという経緯があります
小倉藩主から、のちに熊本藩主を任されることになる大名、細川忠利が寛永11年に
幕府に改革案を提出しています
参勤交代に関して、時期を3月にしてほしいということと、人数の削減を命じてほしい
ということを幕府に意見しています
時期に関しては、2月2日が武家奉公人の出替わり時期なのでその日を過ぎないと
奉公人の確保ができないという、人事的な都合と
この時期なら海も静かだし、雪国の大名も雪解けの時期だから助かるということ
人数の削減については、出費と治安の問題を指摘しています
その意見を幕府もおおむね取り入れて、ああいった法令になってるので
幕政に参加できない外様大名とはいえ、必ずしも無下にはしないということでしょう
細川忠利が家光から大きな信頼を得ている大名だというのもあるのでしょうが
参考文献
「参勤交代」山本博文(講談社現代新書)
「江戸時代の間違い探し」若桜木虔 ・長野 峻(新人物文庫)
「定本徳川家康」本多隆成(吉川弘文館)
「参勤交代と大名行列」永井博(洋泉社MOOK)
記事中でもたびたび引用させていただいた山本博文先生の「参勤交代」はこの分野に関しては定番の読み物で、参勤交代の奥深さを知るには一番
ここでオススメしておきます