江戸時代の天皇 ~禁中並公家諸法度~

去る令和元年10月22日、即位礼正殿の儀が執り行われました

やはり節々でこういった儀式があると、
日本人としてのスピリットを再確認させられると同時に
古来から続いてきた天皇家について関心が高まりますね

日本の歴史でも天皇はその時代時代で多く関わってきますが、
当ブログが主眼を置いている江戸時代はどうでしょう
何か影が薄いと思いませんか?
その辺の事を今回は見ていきたいと思います


武家政権と朝廷の関わり

●並び立つ権力

数年前にやっていた大河ドラマ「平清盛」では
朝廷の武力として仕えるだけだった武士がじわじわと発言力を持っていくさまが描かれています
台頭する源平の武士とそれをコントロールしようとする後白河法皇
しかし物語の最終盤、清盛が後白河法皇に言います「もう平安の時代は終わった」と

源頼朝の武家政権が誕生した鎌倉時代からは朝廷が日本の政治を行う機会はほとんどありませんでした

しかし時の権力者たちは朝廷を後ろ盾にして官位・官職を得るとか、
姻戚関係を結ぶとか、
自身の権力の正当性を形作っていきます
朝廷との距離感の違いはあっても、武家政権はおおむねそういうもののようです

しかし全国統治を行うからには二つの政権が並び立つのは都合が悪いため
力の強いほう(つまり武家政権)が朝廷の政治介入を制限する必要が出てきます
この微妙なバランスが日本ならではです

鎌倉幕府の場合は、「承久の乱」で後鳥羽上皇率いる朝廷軍を破ることで
確固たる政権基盤を作り上げました
しかし、4代将軍以降はおかざりですが天皇家から将軍を立てています

室町幕府は鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政権を打倒し封じ込めることで
権力基盤を得ることになりますが、
京都に本拠地があるため、朝廷との距離は近く、
幕府への朝廷の影響も大きかったといいます

●信長・秀吉と朝廷

豊臣秀吉

ウィキペディアより 豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵)

室町幕府の政治の綻びから始まった応仁の乱は京都を焼き尽くし
その結果御所も荒れ果て、宮中儀式のほとんどが中止になるなど、
戦国時代初期は朝廷にとっては最も悲惨な時代でした

地方が徐々に大きな戦国大名で固まってくると
毛利や上杉などの大名が朝廷に献金し、その見返りとして官位・役職をもらうなど
なんとか権威回復の兆しが見えてきました

決定的だったのは織田信長の登場です
最近では信長は天皇や将軍など、古くからの権威と秩序を重視しようとする人物だという論説が強くなってきました
(ただし相手にはそれにふさわしい品格を強く求めますが)
信長は戦国大名たちに荒らされた御料地の回復や、御所の修理を行い
朝廷の権威回復に努めました
豊臣秀吉の時代になってからもそれは引き継がれ、
天下統一の過程で、「天皇の名のもとに」天下惣無事、つまり戦をやめよと全国に号令します
天正16年(1588年)には後陽成天皇の聚楽第行幸を盛大に行い、
諸大名に臣従を誓わせました

信長・秀吉は天皇の権威を最大級に利用したといえるでしょう
天皇に対して本当に敬意を持っていたのかは議論が分かれるところですが
これまで困窮していた朝廷にとってはまさに渡りに船だったでしょう

しかし、江戸時代になると状況は変わってきます
高圧的ともいえる政策により
朝廷の政治介入を封じこめ、管理したのが江戸幕府でした
秀吉を超える強固な政権基盤を作った徳川家康にとっては
朝廷に対するスタンスも、もはや次の段階に入っていたのです




禁中並公家諸法度

江戸幕府は1615年(元和元年)「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」
を発布します

「禁中」は禁裏(きんり)などとも呼ばれるように、天皇のおわす宮中のことなので
要するに天皇と公家に対する法令ということです

元和元年豊臣家を滅ぼしたすぐ後に満を持してこのような法度を作り
朝廷との関係を明確にし、幕府の完全な制御下に置いたのです

金地院崇伝

ウィキペディアより 以心崇伝像(狩野探幽筆、金地院蔵)

全十七条、家康の命により幕府の政治顧問である金地院崇伝が起草を行いました

今回は大事だと思われるポイントを簡単に押さえておきます

●第一条

天子に一番大事なのは学問をちゃんとすること
第二に和歌、第三に※有職故実を学ぶこと

※有職故実とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること(ウィキペディアより)

と、いきなりド正論で天皇としての格式にふさわしい教養を持てという話

「そんなことを侍なんかに言われなくても自分たちが一番わかっている!!」
と、かなり屈辱的だったと思います

しかしこれを一番最初に持ってくるということは幕府も天皇の立ち位置については
大事なポイントがわかっています
現代においてもこの点についてはほとんど変わりません
和歌はどうか知りませんが、自分は古来からの儀式の継承は最も大切なことだと思ってます

●第二条・第三条

ここでは朝廷内の序列を幕府が規定しています

トップは言うまでもなく天皇ですが、
次が三公(太政大臣・左大臣・右大臣)その次が親王、次が三公を辞任した※摂家出身者、その次が諸親王、その次が三公を辞任した※清華家出身者
ということに決められました

ゴチャゴチャ書きましたが、一番注目なのは
「え、親王は天皇の兄弟なのに大臣より下なの??」
ということです

※摂家・清華家

公家の名門です
摂家は最高位の家柄で、
「五摂家」とも言い、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家がそれにあたります
公家の世界は家格によってなれる官職が決まっており
摂家ともなると、摂政・関白、三公になることができます
清華家は摂家に次ぐ家格を持った家で江戸時代には七家がありました

m******************mさんによる写真ACからの写真

●第四条・第五条

摂家や清華家であっても器量に欠けた人物だったら三公や摂政・関白に任じられるべきではない
と、公家の品格について釘を刺しています
裏を返せば、幕府がふさわしいと認める人物を選ぶということです

●第七条

武家の官位と公家の官位をはっきり区別させる条項です

武家の官位(内大臣、右近衛大将、越前守…とかいうアレ)は必ず幕府を通して願い出なければならないのですが
その官位にすでに公家がついていても、それは武家とは別ものとして存在する
ということを規定しました

官位の上昇を希望する武家が朝廷と直接結びつくことを防ぐ目的があったようです

●第十一条

公家は関白や武家伝奏(ぶけてんそう)などの指示にちゃんと従うこと、従わなければ処罰すべし
と、強権的な条項です
幕府は三公や摂政・関白、※武家伝奏に朝廷の統制を任せ、
それをしっかりと監視し、天皇や大多数の公家たちへの窓口とすることで、朝廷をスムーズに制御しようとしたようです

第二条で親王が三公の下に位置付けられているのはこの辺りの思惑がありそうです

※武家伝奏(ぶけてんそう)

摂家の下で幕府との実際のパイプ役として動く人達です
朝廷の幕府への勅使も務める重要な役目で、摂家を除く上級貴族のなかから常に二人選ばれていました
この人選もだいたい幕府が握ってました

彼らは幕府の京都の支配拠点である「京都所司代」と日常的に連絡を取り合い
情報伝達や儀礼の交渉を行います
公家が洛外に出向する際にも武家伝奏を通して京都所司代に願書を出さなければなりませんでした

第七条で言及している武家の官位の執奏(上にとりつぐこと)も武家伝奏の役割です

その他朝廷の財務管理や宿場の伝馬の手配などの事務的なことも行っていたのでかなり忙しく動き回っていたことでしょう


このように江戸時代は朝廷のやることなすこと幕府が首をつっこむ体制になっていたため、
影が薄いのも仕方がないことだと思います

おそらく京都の人以外では本当に馴染みがない存在だったでしょう

しかし長い江戸時代の中では幕府に抗議したり、うまく自分の要求を通して存在感を高めていった天皇もいます
この辺りのことを調べていくと面白い人物も数多くいますが
それはまたの機会に回そうかと思います


参考文献

「江戸幕府と朝廷」高埜利彦(山川出版社・日本史リブレット)
「完全保存版 天皇125代」(宝島社)



タイトルとURLをコピーしました