目次
黒井城(登山編)
前回の続きです
いよいよ黒井城に登っていきますよ
●登城口
登城口にもちゃんと観光用のパネルがあって、アピールに余念なし
駐車場になっていて、5~6台置けるスペースがあります
せっかくだから俺はこの急坂コースを選ぶぜ
暑さでゲンナリしてるけど大丈夫大丈夫……
急坂コースの脇に貸し出しの杖が用意してくれてあるので使わせてもらいました
これがあるとないとでは結構違いますわ
注意点として、途中にこういう扉がいくつかあって、
「えっ、通っていいのかな?」とびびりますが
これはイノシシよけの柵なので開けて入ったら閉めましょう
●急坂と三段曲輪
最初の急な石段を登って、来た道を振り返った写真です
見て、この斜面
見た感じやたらデコボコしてるので昔はもっとしっかりした障害物だったのか?
斜面プラスこのデコボコで、攻め手はかなり足を取られると思います
この辺、斜面が急なうえに、クランクになってます
クランクは防御の基本
クランクの向うはこれまた急激な斜面…
キッツ……
杖があって助かった
上から攻撃されたらたまったもんじゃない
そしてほぼ真っすぐ続く一本道の斜面の中ほどにある「三段曲輪(さんだんくるわ)」
守りの拠点として、斜面を登ってくる敵を迎え撃つための場所ですね
曲輪跡だという看板があったからわかるものの、言われなきゃ普通の登山道
もうちょっとよく観察してくればよかったと思ってます
●石踏の段
「石踏の段」に到着
今までが人が来るのを拒むような急斜面だったので開けた場所に出て一安心
これも黒井城の曲輪のひとつです
もうひとつの登城ルート(なだらかコース)とここで合流することになります
この曲輪は場所的になだらかコースで南側のクランク状の斜面を登ってくる敵を
上から迎え撃てますが、
広さから見て中腹の守りの一大拠点になっていたことでしょう
実はここと先ほどの急坂の一本道をはさんだ東側に「太鼓の段」という曲輪があるんですが
ヘトヘトすぎて行く気になりませんでした
もっと体力つけろよ…
そしてこの木造の建物
これはただの休憩所じゃなくて、「赤門」といってふもとにあった薬師堂の門だったそうです
それが開発によって取り壊されることになったため、
地元の人達の尽力でこの場所に移築したものだということ
ありがたく休憩させていただきます
●主郭部分
ようやく主郭部分に到達
主郭部分は入り口側からこの東曲輪→三の丸→二の丸→本丸(山頂)
というふうに段階上に構成され、それぞれが食い違い虎口で区切られています
そしてそれを取り囲むように帯状の曲輪も存在し、全方位に攻撃を加える要塞になっています
ちょうど山の上に軍艦がのっかってる感じ
食い違い虎口と言うのは、上の東曲輪の写真でいうと
正面にバーンって石垣があるから、その左脇から入るんですけど、
奥にも(ちょっとわかりにくいけど)石垣があるから、
直角に曲がらなければならない虎口(入口)ですね
すんなり通れないから足止めされてしまうし、石垣の上から攻撃されるわけです
これが、主郭部分にはもう二つあります
周囲の帯状曲輪にも野面積みの石垣の一部が残ってます
広い二の丸
そして本丸
本丸と二の丸はだいたい同じくらいの大きさ
着いたど~~~!!
主郭から見る景色は最高
田畑が多いから当時の城兵たちがここから街道を見下ろしたのと
近い感覚で見れるんじゃないかな?
今までそう多く山城跡に行ってるわけではないですけど
今回が最も高い場所まで登ったという感じですね
丹波の国衆のワイルドさよ…
●まだまだ先はある
今回行ったのは時間と体力の関係上、主郭まででしたが、
黒井城はもっと広域の尾根づたいに砦群が構築されています
これらすべてを回り、遺構を調べるのはもはや城マニアの領域ですね
明智光秀はこの山の周囲全方位にさらに膨大な数の砦群を構築しています
いかに長期戦で挑まなければならなかったことか…
この地図の白いルートは丹波市のホームページでダウンロードできるパンフレットを参考に
ざっくり引いているだけなので探索は自己責任で
道しるべなどがあるかどうかもわかりません
今回の登山はこんなアウトドアシューズで行ったんですけど、
結構険しいので足首にジンジン負担がかかりました
できれば本格的な登山靴で登った方がいい山だと思います
今回登ったのは登城口から主郭まででしたが、
さらに広域の曲輪や砦まで足を延ばすなら尚更登山靴のほうがいいですね
(あくまで登山素人の感想です)
その後の黒井城
天正7年(1579)6月、ついに怨敵・八上城の波多野秀治を討伐した明智光秀は
いよいよ丹波攻めの総仕上げにかかります
8月初旬、黒井城への攻撃が始まります
その時すでに赤井直正は前年に50歳で病死していました
実は黒井城は水源に乏しく、籠城には向かない城なのです
これまで連携していた波多野の援軍もありません
とうとう落城した黒井城から赤井家の当主赤井忠家(直正の甥)は
遠江二俣に逃亡、一命をとりとめます
その後豊臣秀吉に仕え、その後関ヶ原では東軍に参加し
結果、江戸時代には2000石の旗本となりました
旧領は失えど、この時代の地方の小豪族…しかも滅亡寸前だった身としてはかなりうまくやった部類ではないでしょうか
前回も書きましたが、丹波を平定した光秀は黒井城に重臣の斎藤利三を入れ、
明智が滅んだあとは秀吉配下の堀尾吉晴が入城します
堀尾義晴は松江城を築城したことで有名ですが、彼は黒井城から南西の柏原町にある
柏原八幡宮の本殿と拝殿を再建し、これは国の重要文化財になっています
その後、堀尾義晴が加増転封で若狭へ去った後、廃城となります
しかし、小牧長久手の戦いの際、家康に味方した赤井直正の末弟赤井時直が黒井城に入り
一揆を扇動し、家康の信頼を得たそうです
これを最後に黒井城は南北朝時代から続く長い歴史に幕を閉じました
(次回へつづく)
参考文献
「国史跡黒井城跡(パンフレット)」(丹波市教育委員会)
「歴史旅人 Vol.5【明智光秀の謎】 」(晋遊舎ムック)