「麒麟がくる」の舞台を旅する【黒井城・福知山城」③

「麒麟がくる」の舞台を旅する【黒井城・福知山城】③

福知山城

●あまり関係ない前置き

今回は明智光秀が丹波支配の拠点として築城した福知山城へ

この前日、福知山のホテルで一泊したのですが、
ニュースではあの最大最強の台風19号の話で持ち切り
しかも明後日静岡を直撃するというのだから、
もう呑気に観光などしている気分ではなくなってしまっていたのでした
帰ったらすぐ雨戸閉めて…窓に養生テープ貼った方がいいのだろうか、
近所の電柱折れたらどうしよう…
そんなこと考えてガクブルしてたので、疲れてるのにあまり眠れませんでした

まあそんな話はさておき…

城へは福知山駅から西へ1kmほど歩けば着きます

立派な福知山市役所が見えてきたらもうすぐ
案内看板には「海の京都」「お城とスイーツのまち福知山」

…天橋立人気にあやかりたいのはわかりますが、福知山で「海の京都」って言われても無理がある気がしないでもない
スイーツってのはよくわからんけど多分丹波の黒豆のことでしょう(確信)


●明智光秀の治政

福知山城は、もともとは横山城といい、
丹波に勢力を誇った国衆、塩見氏の居城でしたが、明智光秀の攻撃を受け滅ぼされてしまいました
光秀はここに重臣の明智秀満を入れ、城代とします

光秀は城下を整備するうえで、商工業者を集めるため
地子銭という、今でいう固定資産税を免除するという政策をとります
これは大名たちが町を発展させるためにたびたび行うテクニックです

それと同時に、由良川の治水も行ったようです
かつて由良川は城のもっと西側まで流れてきており、
現在のJR福知山駅のあたりで北へ湾曲するという流路をとっていました
そこで堤防を築き、川の流路を福知山城の東側で北へ向かうようにするという大工事を行いました
今でも城の北東、流れが直角にカーブする部分をガードする位置の堤防が「明智藪」という名前で残っています

写真は由良川の堤防
右奥には福知山城が見えます
左のこんもりした竹林が明智藪です

しかし光秀がどの程度城を改修したのか、城下の区画整理や治水事業にどこまで関わったのかは
詳しい記録が残っておらず、不明です
明智光秀が丹波で治世を行っていたのはおよそ2年間という本当に短い間だったので
それでどこまで突っ込んだことができたのかという疑問は残ります
関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)の絵図にはほぼ完成した城と城下の地図が描かれており
この間に最も長く福知山を治めた豊臣政権の小野木重次の治政下(1587年ごろ~1600年)でインフラ整備の大半が進められたと考えるのが自然ではないかと思うんですがどうなんでしょうか

ただし、明智光秀の治政は良好で住民にも評判がよろしかったらしく
現在まで福知山の人々に親しまれているようです

●豊臣政権下の福知山城主 小野木重次

小野木重次は、関ケ原戦役が勃発した際、
東軍の細川忠興の父、細川幽斎の丹後田辺城を包囲した人です
「田辺城の戦い」はそこそこ有名なので小野木重次の名前もチラっと耳にしたことがある人は多いんじゃないでしょうか(覚えているかは別)
その後、小野木重次は細川忠興に福知山城を攻められますが
家康の計らいもあり、助命を条件に降伏・開城します
しかし細川忠興は自分を差し置いて結ばれた講和に納得せず、
城を落とされた恨みもあり、小野木は捕らえて自刃に追い込まれてしまいました
悪い相手に目をつけられてしまった不運な大名もこの福知山城の歴史の1ページであります

 


●福知山城の遺構

福知山城があるのは展望の利く丘陵上で、由良川を天然の要害とするなど
まさに城を造ってくれといわんばかりの絶好の場所にあります

電車からも見える立派な天守閣がそびえ立つ福知山城ですが、
明治6年の廃城令によって大半が失われ、
残された遺構はそれほど多くありません

地図で見ると、二の丸があった場所などは完全に住宅地になっています
はっきりとわかるのは本丸と、西の「伯耆丸」ぐらいで、
本丸は石垣が数多く残っていますが
伯耆丸に関しては「伯耆丸公園」という、テニスコートがある公園になっているらしく、時間の関係で行かなかったんですが
どうも昔の痕跡といえるようなものは残ってないみたいですね

というわけで今回は本丸のみざっと観光してきたという感じになってしまいました

上の写真は本丸から西の眺め
写真の中央にある丘が伯耆丸(公園)

登城路

堀に架かる「昇龍橋」 工事中だったので通りませんでした


●福知山城天守閣

主郭部分に到着
天守は昭和に市民の運動によって、江戸時代の絵図を元に再建されました
多くの復元天守と同じく鉄筋コンクリート造ですが
外観は忠実に再現されています

三重四階建て望楼型の大天守と、二重二階建ての小天守が渡り櫓で連結する形になっています

上の写真は西側から見た大天守
この写真だと小天守は左の奥まった所にあって見えませんね…

こっちがさっきの写真の裏側(東側)
城の入口はこちらにあります(中は資料館になってます)
右の建物が、写真の撮る角度ででっかく見えちゃってますけど、小天守です
大天守と小天守の間には渡櫓(わたりやぐら)があって、それで連結してるんですが
そーいうのを説明するいい写真を意識して撮影しなかったのは反省

ぜひ皆さんも実際に足を運んで、ここがああだ、あそこがああだと確かめてみてください

この小天守ですけど、天守台が本丸を囲む塀から突き出ていて
そのまま下に延長され、本丸の石垣の構成物となってます
かなりの高低差が生まれ、下から攻める敵に上から睨みを効かす形になって迫力があります
つまり、天守だけど隅櫓(すみやぐら)みたいな役目も兼ねているということですかね

そして、福知山城といえばこの戦国時代らしい野面積みの石垣の
ところどころに使用されている「転用石」

転用石とは、石垣に使用する石を調達する際に、墓石・石仏・灯篭などを流用したものです
伝承や寺の由緒書きなどによれば、明智光秀が従わない寺を破壊して墓石などを持っていってしまったようです
とにかくとんでもない量の転用石が使われており、
光秀や当時の武将がこれについてどういう感覚を持っていたのかは定かではありませんが
良くはないでしょうね…

 

 

このイケメン誰っすか

この自販機、後で知ったんですが、ただイラストがラッピンされてるだけじゃなく、
福知山の観光サイトによれば、スゴイ機能があるらしいです↓

僕もここで飲み物買おうと思ったんですが、小銭がなかったので聞きそびれました…


●銅門番所(あかがねもんばんしょ)

本丸の西側にあるこの建物は銅門番所といって
かつては二の丸の登城口の銅門(あかがねもん)の脇にあった番所を
大正時代に天守台に移築(なんでよりによって天守台?)したそうです
そして昭和に天守が再建されることになり、現在の場所に移築されたという経緯があります
つまり、当時の福知山城の建物で残っている唯一のもので、とても貴重なので甘く見ないように


●本丸東側

福知山駅にもあった天守のしゃちほこのもう一体がここにあります
鬼瓦職人の伝統技術で復元されたものです

この大きい石組みは実は井戸で、「豊磐の井」といいます
案内表示によれば直径2.5m、深さ50mもあり、こんな高い場所から由良川の川床よりも深い地下の水脈まで岩盤を掘り下げているそうです
江戸時代の技術力の高さを垣間見ることができるものです


あまり帰りの時間を考えずに新幹線のぷらっとこだまを買っていたので
本当はもう少し見て回る予定だった場所に行けなかったのが勿体なかったと反省


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