今年の大河ドラマ「麒麟がくる」で重要なキーパーソンとなる織田信長
言わずと知れた戦国の覇王ですが、
若い頃の信長はなんだか大変そう…
兄弟とシャレにならないくらい仲が悪かったり、親戚が攻めてきたり……
よその国と同盟を結んでなんとか耐え忍んで頑張ってます
この尾張の国(愛知県北部)の内乱の様子は
視聴者にとってもゴタゴタしていて、理解するのに大変です
そもそも話をややこしくしているのは
信長の父親、ドラマでは高橋克典さん演じる織田信秀が、
いけいけGOGOでガンガンやっていたことに端を発します…
そこで今回はその織田信秀という人物について取り上げます
信秀を調べることで、若い頃の信長が置かれた状況がより理解できるはずです
目次
そもそも「織田家」とは
●尾張国のヒエラルキー
この時代、各国のトップは「守護」といって、足利一門の有力な家(土岐・斯波・今川・山名など)が任じられるものになっていました
複数の国の守護を兼任する彼らは、室町幕府の将軍をさしおいて絶大な権力を誇りますが
それが高じて守護同士の争いが起き、
ついには日本中を巻き込む大乱「応仁の乱」が勃発
幕府や守護の権威は衰え、世の中はそのまま戦国乱世へとなだれ込みます
この時力をつけてきたのが、守護の代理でその領国を統治していた「守護代」です
守護代は守護よりも地元に密着しているので、
日本が無秩序状態になり、地方の力が増せばおのずと力をつけてくるのは必然でした
●信秀は織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家
そして織田家も尾張国の守護代でした
信長の父、織田信秀の頃は、
尾張国内の上四郡を「織田伊勢守家」
下四郡を「織田大和守家」が
守護代として尾張を治めていました
守護の斯波氏の力はこの時にはもはや形骸化しており、国のトップであるはずの斯波義統(しばよしむね)は大和守家の清洲城にいて、傀儡的な存在にすぎませんでした
それでも守護を擁立している大和守家のほうが、伊勢守家よりも優位的でした
その「織田大和守家」には「織田因幡守家」「織田藤左衛門家」「織田弾正忠家」という有力な家が仕えていました
織田信秀はその「織田弾正忠家」の当主です
立場的には守護代ですらありません
守護代を支える立場です
弾正忠家は勝幡城(しょばたじょう)を本拠としていました
尾張国内で勢力を増す織田信秀
●織田信秀、躍進する
さて、そんな信秀ですが
彼はメキメキと力をつけていきます
もともと親の代から土地を横領したり、後述する津島を勢力下に入れたり力をつけてきた弾正忠家ですが、
信秀自身が発言力を増すきっかけになったかもしれない出来事が
天文元年(1532)、守護代の織田大和守達勝(みちかつ)や織田藤左衛門などとの争いでした
この戦いの原因は不明ですが、この時はどうやら和睦と相成ったようです
この出来事を境に織田信秀が寺社や国人領主への影響を強めていることから
信秀にとって状況は有利に転がったようです
もう一つの出来事が
天文7年(1538)、那古野城主今川氏豊を、尾張から追放したことです
この今川氏豊というのは、駿河の守護今川義元の弟で、
今川那古野氏の養子になっていた人物です
尾張にも今川がいたんですね
とにかくその那古野の今川を追っ払って、信秀は勝幡城から那古野城に本拠を移し、
愛知郡にまで勢力をのばしました
これは当然、今川家はカチンときたことでしょう
ちなみに、今川氏が築いたこの那古野城は、現在の名古屋城の二の丸あたりにありました
●信秀、絶好調
信秀が那古野に移る少し前の天文4年(1535)12月、
三河で勢力を奮っていた信秀のライバル、松平清康(家康の祖父)が家臣に殺されるという大事件「森山崩れ」が起こります
三河松平氏の力は大きく衰え、
天文9年(1540)信秀は三河へ侵攻を開始
三河の要衝、安祥城を攻めます
安祥城の落城時期については諸説あってややこしいのですが
遅くとも天文16年までには落としているようです
そして天文12年(1543)知多半島への野望を持つ三河刈谷城主、水野信元と同盟を結びます
水野信元は徳川家康の母、於大の方の兄です
つまりこれは家康の父、松平広忠にとっては衝撃的な裏切りでした
広忠は於大と離縁してしまいました
このように信秀の野望は尾張という国を超えて拡張していきます
しかしこれは同時に、三河松平家のバックにいる大大名、今川家との対立の激化を意味します
※織田信秀の力の源泉
守護代の補佐にすぎない家柄の信秀がここまで躍進できたのはなぜでしょうか 織田信秀の居城だった勝幡城の近くには津島という場所があります それに加え、信秀が那古野を手に入れてからは熱田の湊を勢力下に置き、そこでも豪商を通じて財をなします 信秀は伊勢神宮に七百貫寄進したとか、禁裏御所の修理に四千貫出したといいます |
斎藤道三と今川義元
●加納口の戦い
天文13年(1544)、信秀は美濃へ攻め込みます
この頃、尾張の北の美濃では斎藤道三(この時は利政)が、
信秀と同じように権力を奮っていました
これまでにも信秀と道三との争いはたびたびあったようで
信秀は美濃の西の大垣城を奪い取っていました
今度の戦いは越前の朝倉氏と組んで
両方向から攻める、規模の大きい戦いでした
信秀にとっては道三をやっつける絶好の機会
大軍を率いて木曽川を超えます
味方が美濃赤坂で敵方を打ち破るなどして勢いづいた信秀は
道三の本拠地、稲葉山城下にまで攻め寄せます
大河ドラマ「麒麟がくる」第二話でも扱われた「加納口の戦い」です
結果は信秀の惨敗でした
信秀は稲葉山城下の奥深くまで攻め込んだようですが
どうやらこれは道三の作戦だったらしく、
日暮れに軍を半数引き上げさせたところを道三に急襲されたようです
総崩れになった信秀軍はこの戦いで多くの部下を失います
「信長公記」によれば
その中には弟の織田与次郎信康や、(本来なら)信秀と同格の立場の織田因幡守まで含まれていました
満を持して挑んだ大戦に敗れた信秀の立場はこれ以降
尾張国内のアンチ信秀派を勢いづかせ、苦境に立たされることになります
●大垣城攻防戦
そして、大垣城をめぐって斎藤道三とのおそらく最後の戦いが繰り広げられます
大垣市の寺の過去帳などの一次資料によれば
天文17年(1548)の八月から年末にかけて、織田信秀の怒涛の美濃侵攻があったようです
ここで美濃衆の多くが討ち死にした記録が残っています
しかし最終的に大垣城は道三に奪い返されています
「信長公記」では、天文16年の11月、清洲城の尾張守護代大和守家の家老衆が
信秀の留守中に、信秀の居城古渡城の城下に放火し敵対行動に出た
それにより美濃から撤退せざるを得なかったということが書かれていますが、
もしかしたらこれは1年間違っていて、前述の天文17年のことかも…という考え方もできます
ともあれ、
ついに尾張内部の火種が動き出し、美濃侵攻もうまくいかなくなったということでしょうか
●小豆坂の戦い
視点を三河との国境に移せば、
天文17年(1548)3月、太原雪斎を総大将とした今川軍が三河へ出兵し
岡崎城の松平広忠もそれに合流します
信秀も長男織田信広(信長の異母兄)を大将とし、進軍
両軍は岡崎の小豆坂(あずきざか)で激突します
有名な小豆坂の戦いです
(「信長公記」にある天文11年の小豆坂の戦いと区別するため、この戦いを「第二次小豆坂の戦い」と言ったりします)
全くの余談ですが、僕は昔岡崎に住んでいたことがあり、
雪斎が進軍してきた藤川や、小豆坂の辺りも自転車でよく通っていたのですが
その当時は全く考えもしませんでした
確かにあの辺りはものすごい高低差があり、まさに坂の町でした
自転車でえらく苦労したのを思い出します
この戦いでは信秀は意地をみせ、なんとか今川軍を押しとどめます
が、今川軍からすれば我らの勝ちだと触れ回っていたたようです(三河物語)
なのでそれほど勝敗がはっきりした戦いではなかったのでしょう
信秀は息子の信広を安祥城の守りにつかせ、尾張に帰っていきました
ちなみに織田信広というのは長男ですが、側室の子ということで、相続権初めからがなく
家督相続は次男で正妻の子である信長に決まっていたようです
●安祥城陥落
天文18年9月、再び雪斎率いる今川軍が三河に侵攻してきました
そして今回は前回のようにはいかんと言わんばかりに
安祥城を落としにかかります
安祥城は二の丸、三の丸を焼かれ、ついに降伏、
城内までなだれ込んだ今川軍によって
城将の織田信広は捕虜になってしまいます
太原雪斎の目的は、竹千代(のちの家康)と織田信広の人質交換でした
さかのぼること天文18年3月、松平広忠が若くして亡くなります
死因は暗殺や病没など、資料によってバラバラですが、
ともかく亡くなってしまいました
この時、松平広ると主君を失った松平家の家臣たちが
竹千代がいる織田忠の子、竹千代は織田の人質になっていたので
モタモタしてい家につくかもしれない…と考えたかもしれません
本来は今川の人質になるはずだった竹千代を何としても取り戻したかったのでしょう
結果、信秀はこの要求を飲み、信広は命からがら尾張へ戻ることができました
親子の情も当然あったかもしれませんが、
当時最大の戦国大名の一角であった今川との戦を強いられた信秀の苦境がうかがえます
信秀の最期
●斎藤道三との同盟
西三河の勢力拠点である安祥城を失ってしまった信秀は
自身の病も加わって、いよいよ苦境に立たされていきます
実は安祥城が落ちる前年、天文17年から美濃斉藤道三との同盟の動きが始まっていました
そしてよく知られているように、
天文18年、信長と、斎藤道三の娘の帰蝶との縁組みが成立
この同盟と婚礼に奔走したのが重臣の平手政秀でした
彼は以前にも守護代家の家老衆と争いになった時にも和睦に力を尽くした人物なので
信秀の優秀な外交官として重宝がられたことでしょう
帰蝶(濃姫)ですが、この人はその後の資料にほぼ全く出てこないらしく(それらしき人はいるようですが…)
謎につつまれています
信長の最初の妻なのに不自然でミステリアスですね
ドラマではわからないのをいいことに家中のことにあれこれ暗躍していますが、
ちょっとやりすぎじゃ…と思うのは私だけでしょうか
あともう一つ、「美濃国諸旧記」という美濃側の資料によれば
明智入道宗寂という人が仲人だったということが書いてあるらしく、
この宗寂というのが、大河ドラマで西村まさ彦氏が演じている明智光安のようです
ドラマでは最後まで坊主にはなりませんでしたが、道三と同じく出家してたみたいです
●信秀の死
信秀は天文18年ごろから病に伏せるようになっていたようです
先述の今川の安祥城攻めのときも息子のピンチにもかかわらず信秀の出陣がなかったのは
病で出陣できなかったからではないかと推測する研究者もいますし、
時期的にそれが自然ではないかと思います
翌年の夏も今川が五万ともいわれる大軍で攻め寄せてきます
もはや防戦一方の信秀
翌年には将軍足利義輝の仲介で今川との和睦を進めた形跡がありますが
今川はそんなに甘い連中ではなく、逆にそれを利用して尾張内部で味方を増やそうと工作にいそしむ始末
そしてそんな大ピンチの中、力尽きる信秀
良いことも悪いことも、後の事は信長に引き継がれました
信秀という武将
今回、あまり知らなかった織田信秀という武将の事跡を、複数の関連本をもとに
なるべく簡易にまとめてみましたがいかがだったでしょうか
(多少長くなってしまいました)
本来守護代を補佐する立場にすぎないにもかかわらず、
戦にも商売にも精を出し
ガンガン皆を引っ張っていく、パワフルな「THE戦国武将」という印象を受けます
戦のスタイルも籠城よりも撃って出るタイプというのも
なかなか男心をくすぐるポイントだと思います
これはマムシといわれ、ずる賢いイメージの斎藤道三や
エリートの今川義元とは違う英雄像ではないでしょうか
あまり触れませんでしたが、信秀は拠点を勝幡城→那古野城→古渡城→末森城と
状況に応じてどんどん変えていきます
(古渡城に移る際は那古野城を信長に与えています)
この当時では珍しいタイプの武将で、
これが教えとなって信長へ引き継がれていると考えるのも面白いところです
参考文献
「天下人の父・織田信秀」谷口克弘(祥伝社新書)
「織田信長」桐野作人(新人物文庫)
「斎藤道三と義龍・龍興」横山住雄(戎光祥出版)
「現代語訳 信長公記」太田牛一 著・中川太古 訳(新人物文庫)
「原本現代訳 三河物語」大久保彦左衛門 著・小林賢章 訳(ニュートンプレス)
信秀のことをさらに詳しく知るには参考文献にあげた「天下人の父・織田信秀」がおすすめです
出版されたのが2017年と新しく、最新の研究を踏まえてわかりやすく検証しています