家康の先代 松平清康・広忠 ~覇道からの大ピンチ~

今年の大河ドラマ「麒麟が来る」、2018年の「おんな城主直虎」

共通して登場するのが「竹千代」つまり幼少期の徳川家康です
幼少期の姿がこれほど出てくる武将もそういないでしょう

織田や今川の人質となっていることで有名ですが、大名の子息が人質となること自体は戦国時代ではまったく珍しくはありませんが、
竹千代の場合は松平氏というかなり大きな勢力からの人質だったので
とりわけスポットを浴びることになります

しかし「人質だった」ということは誰もがざっくり知っていても
なんでそんなトホホな羽目になっているのか、
順を追って説明しろと言われるとなかなか難しい

今回は思い切り原点に戻り、
家康の祖父と父の代を見ていくことによって
江戸時代を築いた徳川家康の幼少期を取り巻く状況をまとめてみたいと思います

 


目次

家康のおじいさん死す! 大事件「森山崩れ」

●松平清康

家康のおじいさんにあたる「松平清康」
彼はまさに英雄でした

現在新幹線の駅でおなじみの三河安城
清康が生まれた頃、松平の宗家はこの辺りを領有し、安祥城(安城城)を本拠としていました
(分家と区別するため、地名から「安祥松平家」と呼ばれます)

松平清康はこの宗家の跡取りとして生まれました

松平清康

清康の父親の六代目当主、松平信忠という人がいました
「三河物語」にもグダグダと書かれているのですが、
ただ事じゃないほど人望がない人間だったようです
そのため弟の桜井松平信定(清康のおじ)との間で派閥争いが起き、家中が分裂したため
早々に隠居し、清康に跡目を譲っています

松平清康

ウソみたいですがこの時清康は13歳

いくらなんでもこれで丸く収まるとは考えられない…
普通に考えたら完全におじの信定が増長して言われるがままになってしまうパターンなのですが…

恐るべきことに清康、ナメた態度をとっていた大草松平昌安(西郷信貞)の山中城を攻め落とすと、岡崎城を奪い取り、本拠地を岡崎に移したのを皮切りに
東三河にまで勢力をのばし、破竹の勢いで諸勢力次々と攻略
ほぼ三河全土を平定してしまいます
隣国尾張の織田と事を構えるようになるのもこの頃からです

散々こき下ろされた父親とのギャップがありすぎて突拍子もない話ですが
家康の祖父だと考えれば、さもありなんと思えます

しかし、突然の悲劇が清康を襲います
それは天文4年(1535)12月、清康が尾張へ出陣したときに起こりました

松平清康

●森山崩れ

この尾張攻めは清康が西美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)らと結託し、尾張の織田信秀を攻めるという大規模軍事作戦でした

「三河物語」によればこのとき尾張の森山城主である織田信光(織田信秀の弟)が案内を買って出たということで、森山城へむけて出陣します

さらっと書いてありますが、信光は信秀を裏切っていたということでしょうか?

清康が森山に着陣すると、三河にいる叔父の信定が裏切ったという知らせが届きます
「森山城主は内膳殿のむこ(織田信光は松平信定の娘を妻としていた)なので、弾正忠(信秀)を城に迎え入れているでしょうから…」
と、三河物語ではこの時点で信光をいつのまにか敵として扱っている感じです
はじめから信定と信光が結託し、清康を森山におびきよせたってことでしょうか

そうはっきり書いてあるわけでもないのでわかりにくいんですよね

このとき清康はおじとの仲は公然と悪かったため驚かず「織田弾正忠(信秀)が攻めてくるなら打ち破ってやるわ」と余裕だったといいます

しかし悲劇は清康の思いもよらぬところから降りかかりました

阿部定吉という家臣がおり、この在陣中に彼が敵と内通しているという
ウワサが流れていました
戦ではよくある手で、これも敵がわざと流したうわさであると思われますが
阿部定吉はこのことを重く受け止めて、息子の弥七郎を呼び寄せて
自分が濡れ衣で殺されるようなことがあれば潔白を証明してほしいということを
言ったようです

おそらく怒りと疑心暗鬼に駆られた弥七郎は
馬が逃げ出して人が騒いでいるのを「父が斬られた!?」のだと勘違いして
あろうことか主君の信康を刺し殺してしまいました
12月5日の早朝のことでした

「三河物語」のこの場面では
弥七郎をその場で斬りふせ、足で蹴り殺して、肥溜めに放り込んだ
という三河衆の怒りと憎しみの言葉で表現しています

この大事件は「森山崩れ」といわれ
三河衆の心に大きな影を残すことになります


窮地に立たされる松平広忠

●桜井松平信定の専横

松平家は最高潮から一転して大急落、
若き25歳のカリスマリーダーを失いどん底のピンチを迎えます

嫡男、松平広忠はこの時まだ10歳
とても松平家を背負って立つことなどできません

ここでまた出てくるのが松平信定です

桜井松平信定

おおっぴらに宗家を乗っ取ろうとしてガツガツしてる男です

信定は岡崎城を乗っ取ると、広忠を追放
反信定派は広忠を伊勢へ逃がします

その後、遠江を経て三河に戻るも執拗に信定の攻撃を受けます

そこで広忠は駿河の今川義元を頼ります
三河の主導権を今川に牛耳られる恐れも十分にあることは広忠派もわかっていたでしょう
しかし、同じ松平家でもこんなやつに三河を乗っ取られるくらいなら!!
…という感じだったのかもしれません

いつの時代でも身内間の派閥争いは恐ろしいものです…

松平広忠

●岡崎に復帰した広忠

そして、天文6年(1537)今川家協力のもと、広忠は岡崎城に松平家当主として復活することができました

信定は抵抗しますが今川軍に攻められてはなすすべなく、
全く不本意ながらも広忠に従います
そして翌年に死去
実権を握るにしても、広忠の補佐として少しずつ宗家を乗っ取るというわけでもなく
人心を無視し、無理やりトップに立とうとした男はこうしてこの世を去りました

森山崩れのところで言及しましたが
松平信定は個人的に織田と縁を結んでいるような人だったので
広忠の当主復帰は、松平が織田から今川に乗り換えることになります

天文9年(1540)、尾張の織田信秀が三河へ侵攻
安祥城を攻めます
前回の織田信秀の記事でも書いたように、
ここで安祥城が落ちたかどうかは研究者の意見が分かれますが、
三河が織田と今川の戦いの舞台になっていきます

●家康生まれる

天文11年(1542)、刈谷城主水野忠政の娘於大の方と広忠の間に、
のちの徳川家康である竹千代が生まれます

竹千代の誕生

広忠17歳のときでした

しかし、翌年の天文12年、事件が起こります

水野忠政が死去すると、子の水野信元
あろうことか、織田に寝返ります

広忠は信元の妹である於大と離縁することになってしまいました

●三木松平信孝の追放、寝返り

水野の裏切りのことはよく知られていますが、
さらに物騒なことに、叔父である松平信孝の追放事件がありました

松平信孝というのは、三木松平家という分家の人で
広忠が松平信定に追放されたときも広忠に従い、苦楽を共にした人でした

「三河物語」によるとその信孝、自分の弟が死ぬと跡継ぎがいないため、その領地を自分のものにします
それだけならまだしも、岩津松平という家の遺領を押領したといいます

そのため、信孝の領地は宗家の広忠に匹敵する大きさとなります
これは危険かもしれないと思ったのか、
広忠の家臣一同は信孝を今川の遣いにやり、そのまま追放してしまいました

その後信孝は「広忠に対し二心はない!」と許しを請いますが、
また松平信定みたいな奴が現れるのはごめんだということで聞き入れられず、
結局信孝は織田に寝返ります

三河物語の記述を信じれば、疑心暗鬼が過ぎると思うのですが
恐らく根底には家臣間の権力争いがあったのではないでしょうか
ピリピリした三河の情勢が伝わってきます

桜井松平信定


広忠、裏切りと戦いの日々

●激動の天文16年

天文16年(1547)、三河は大きく動きます
織田方の勢力が攻勢に出たのです

松平信孝が、やはり織田方と通じていた松平忠倫(どこの松平かは??)、酒井忠尚(酒井忠次の父)、松平清定(松平信定の子)などとともに反逆ののろしを上げます

この織田方の侵攻で安祥城が落ちたとすれば、
三河国内のアンチ広忠派の動きも納得できます

ここで出てくるのが、竹千代(家康)の人質の話です

ピンチになった広忠は今川義元に援軍を要請、
このとき今川は広忠の足元を見て、広忠の嫡男竹千代を人質に出すことを要求します
そして6歳の竹千代は、八月二日、岡崎から駿府へ向けて出発したのです

●竹千代、拉致される!!

竹千代は岡崎から三河湾に出て海路で渥美半島の田原に上陸したあとは
陸路で駿府を目指す予定でした

しかし、広忠の後妻の父である田原城の戸田康光までもが織田方に通じていたのです
竹千代を戸田康光に奪われ、織田信秀のもとへ送られてしまいます

人質を取った信秀は当然広忠を脅してきますが、
広忠は要求を突っぱね続けたようです
ここで竹千代は殺されてもおかしくないのですが、
まだ利用価値があると見たのか殺されはせず、織田の元で人質生活を送るはめになってしまいます

ドラマなどではここで家康と信長とのはじめての出会いの場面が描かれることが多いですが、
コンタクトがあったかどうかは不明です

●松平信孝との戦い

9月、今川軍は手始めに、ナメた態度をとってくれた戸田康光を攻撃
田原城は陥落し、田原戸田氏は滅亡しました

落城

竹千代を奪った代償はあまりにも高くついてしまいました…

同時期に広忠と信孝の戦いも始まります

山崎城の松平信孝は岡崎城へ向けて進軍、
広忠は矢作川の渡河原で迎え撃ちます

9月28日に行われたこの渡河原の戦いは、信孝の勝利
この戦いで広忠側の鳥居忠宗などが討ち死にします
彼は後に家康の重臣として活躍する鳥居元忠の兄です

信孝は岡崎城までは追撃してきませんでした

ちなみに広忠も防戦一方というわけではなく、この前後の時期に
刺客を放って、裏切り者の一角、松平忠倫を暗殺しています

●耳取縄手の戦い・松平信孝の最期

天文17年(1548)3月、今川軍と織田軍が三河の小豆坂で激突します
有名な「小豆坂の戦い」です
この戦いには広忠も参加しています
この戦いについては織田信秀の記事に書いているのでここでは割愛しますが、
この辺りから今川の攻勢がはじまります

4月15日、再び松平信孝が岡崎城に向けて攻め寄せてきました
「三河物語」によれば、広忠の家臣たちは早くに山の上から信孝軍の動きを察知し、軍勢は500程度と見積もったようです
とはいえ、山の上にいた偵察隊(?)は30人ほどなので、
待ち構えて矢を射ったあと、坂をおり明大寺町のほうへ逃げて、乙川の河原へ出る(その後城へ退却?)
いわゆるヒット・アンド・アウェイのような作戦を実行しました

松平広忠

この奇襲を受けて信孝軍は混乱し、
その偵察部隊を追わずに陣容を立て直そうとしたようです
しかしそれが悪かったのか、もう一度戻ってきた偵察部隊が矢を射って攻撃すると
不運にも信孝に命中し、戦死してしまいました
岡崎城からもすぐに兵が押し寄せ、信孝軍は壊滅します

現在の東岡崎駅のあたりは「耳取」という地名で、
この辺りで行われたことからこの戦いを「耳取縄手(みみとりなわて)の戦い」といいます
「縄手」というのは細い道、あぜ道のような意味の言葉です

この戦いは広忠の大勝でしたが、
広忠は信孝を殺すつもりまではなかったようで、
その死に涙したと「三河物語」にあります
三河物語は徳川方の資料なので多少広忠を美化している部分や、
信孝を追放した後ろめたさもあるかもしれません

個人的には、信孝が敵に回ったのは、内膳(信定)の場合とは大違いだと書いてあるのがなかなか面白い
やはり松平信定には相当のトラウマがあるようです

桜井松平信定


広忠の死と竹千代

●広忠の死因には諸説ある

なんとか今川義元のバックアップのもとで、三河の敵対勢力を駆逐していく広忠でしたが
天文18年(1549)3月6日、若くして病死してしまいます

三河物語をはじめとした多くの文献が病没したと書いている中、暗殺されたという文献もあり、
そちらの説もありますが、
無理に隠す必要性も感じないので僕は病死でいいのでは?と思っています

「麒麟がくる」では信長が刺客を放って暗殺して親父に怒られるという大胆なシナリオだったのは
記憶に新しいですね

その後、岡崎城は今川に接収されてしまいます

11月、これも織田信秀の記事で書きましたが、
今川軍は織田方に渡っていた安祥城を落城させ、
城主織田信広との人質交換で竹千代を取り返します

そして、竹千代は駿府の今川義元のもとへ送られ
今川の一武将としての教育を受けることになります

ここで戦国大名としての松平家はゲームオーバー……

のはずでしたが、これから戦国の歴史は思わぬ方向へ向かっていくことになるのです

●まとめ

「麒麟がくる」でも1話限りの登場で暗殺されてしまい、
地味な扱いの松平広忠

武将としてもあまり注目されない人物ですが、
調べてみると結構頑張っている姿が見えてきます

しかし、とにかく置かれた境遇が不幸、そして不運の連続
外敵だけでなく味方の統率にも苦労している様子がうかがえます
彼に安息の日はあったのでしょうか

しかしこの人が、後の天下人徳川家康を生んだのです


参考文献

「原本現代訳 三河物語」大久保彦左衛門 著・小林賢章 訳(ニュートンプレス)
「定本 徳川家康」本多隆成(吉川弘文館)
「家康の家臣団」山下昌也(学研M文庫)
「現代語訳 信長公記」太田牛一 著・中川太古 訳(新人物文庫)
「織田信長」桐野作人(新人物文庫)



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