【庄内藩】① 代表的な譜代大名

庄内藩 歴史のお話

庄内藩とは

 

●庄内藩はメジャーな藩である

以前このブログで、越前松平家の福井藩を取り上げました
これは徳川家康の次男(秀康)を藩祖としている親藩大名ということになります
将軍と並ぶ家柄のため、扱いが難しく紆余曲折があったということを紹介しました

今回は譜代大名の代表格、庄内藩についての記事です
譜代大名は関ヶ原以前から徳川に仕えていた家臣が大名になったものです

江戸時代には全国に300藩以上の大名家があったので
それら一つ一つについて語れる人はなかなかいないと思いますが、
普通は代表的な藩をいくつか知っていればOK
庄内藩は中でもかなりメジャーな存在だと思います

その理由はまず
石高が大きく、広い領地を支配していること
そして、城主の酒井家が1622年の江戸時代初期から幕末までずっと統治していたというわかりやすさ
藩というのは大抵、何らかの理由で領地替え(転封)や取りつぶし(改易)が行われるものです
しかし領主がずっと同じというのも、別段珍しいわけでもありません
庄内藩はそれに加えて、特筆すべき出来事が多かったのです

 

●注目すべきポイント

その代表的な事例が「三方国替え事件」
実は酒井家も望まぬ領地替えの危機がありました
それは幕閣や他の大名の勝手な都合によるところが大きく
怒った庄内の人々が大規模な国替え阻止運動を起こすという前代未聞の事件に発展しました

幕末の戊辰戦争では、庄内藩は旧幕府軍として戦いながらも
最後まで新政府軍を退けた強力な藩として有名です
西郷隆盛とのエピソードは知っている人も多いでしょう

そして何と言っても鶴岡出身の小説家藤沢周平の作品の舞台にたびたびなっているということも大きい
だいたい架空の話では藤沢氏は舞台を「海坂藩」としていますが、これは庄内藩がモデルとなっているといわれます
先ほど言及した三方国替えについての話は「義民が駆ける」という歴史小説として発表されており、藤沢周平の代表作のひとつになっています

 


庄内藩の領地

庄内藩がある場所は現在の庄内平野、つまり山形県の鶴岡市、酒田市一帯の広い範囲です
米どころとして有名で、日本海に開けた酒田港を有し、
北に鳥海山、南東に修験の霊場羽黒山・月山を望みます
領地の中央には最上川が流れ日本海に注ぎます

領内は最上川を境に川北(飽海郡)・川南(田川郡)に分かれます

藩政の中心は鶴岡市の鶴ヶ岡城
最上川をはさんで北側の酒田市には支城の亀ヶ崎城がありました
江戸時代には一国一城令があり、大名が城を持つことは大幅に制限されていましたが、
領地の広さなどでケースバイケースで、支城を持つことを許されている大名もいて
庄内藩もその一つです

庄内藩

庄内平野は戦国時代、山形の戦国大名最上義光(もがみよしあき)
「北の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦
徳川方として上杉軍を退けた功績から手に入れていました
その時の最上家の総石高はなんと57万石
最上家は大大名としての道を歩む……はずでしたが、
藩内部の内輪揉めが絶えず、結局は改易
領地は分割され、元和8年(1622)庄内平野は徳川の譜代大名酒井氏が統治する地になりました

 


初代藩主 酒井忠勝

庄内藩酒井氏の藩祖は酒井忠勝(さかいただかつ)
この人は言わずと知れた徳川四天王の酒井忠次の直系のお孫さんです
酒井忠次といえば、家康の幼少期から仕えていた最古参にしてトップクラスの腹心のひとり
かなりの家柄の大名家です

忠勝は国替えの話が来たとき、最上家の旧領のうちの山形が欲しいと言ったのですが、
将軍秀忠の要望や老中らに説得されて庄内に入ったそうです
幕府には最も北の重要地点に有力な譜代大名を置いておきたいという思惑があったようです

忠勝がまず行ったのは庄内平野のどこを拠点とするかということでした

庄内にはもともと酒田港という良港をもつ商業都市、酒田がありました
そこの亀ヶ崎城を拠点とする選択もありましたが、
忠勝は南の小さな城だった鶴ヶ岡城を大規模に拡張し政庁とし、城下町を整備しました

亀ヶ崎城には城代を置いて酒田を統治します

忠勝は庄内に入る前に家臣に庄内平野の徹底調査を命じていました
その結論として、南北に広い庄内平野にダブルの城下町を持ち、バランスの良い統治機構を目指すということだったのかもしれません

酒井忠勝

ウィキペディアより 庄内藩主・酒井忠勝の肖像

※酒井忠勝は二人いる!?

ややこしいことに酒井忠勝という名前の人物は、
今回紹介した人とほぼ同世代にもう一人います

徳川家家臣の酒井家は大きく分けて酒井左衛門尉(さえもんのじょう)家系と酒井雅楽頭(うたのかみ)家系の二つの流れが存在するのですが、庄内藩初代の酒井忠勝は左衛門尉家系です

もう一人が雅楽頭家系の酒井忠勝
こちらのほうが圧倒的に有名
若狭小浜藩主で、老中・大老として初期幕府政治の中心人物のひとりです

「忠勝」というのは諱(いみな)ですから、普段は使わない名前です
当時はそんなに不都合はなかったでしょう

 


庄内藩の石高

庄内では最上家の時代は年貢高を決定するのにまだ刈高制(収穫した稲の束で年貢高を決める。東北地方などを中心に近世初頭まで行われていた)が行われていましたが
酒井家の統治から総検地が行われ、石高制に移行しました

酒井家は13万8000石で国入りしましたが、検地の結果5万3000石分の増収が見込まれました
さすがは米どころといったところです

これを踏まえて藩は、寛永2年(1625)定免法の実施に踏み切ります
定免法は過去の平均収穫量によって税額を一定に定める方法です
農民にとって豊作の年は余剰が生まれますが、凶作の年は厳しくなります

近世初頭においてこの方法は、農民には嫌われました

検地による年貢増収に加えてこれですから、農民の中には欠落(かけおち ※田畑を捨てて逃亡すること)する者も相次ぎました

 

 

鳥海山

mikan87さんによる写真ACからの写真

 


庄内藩の家臣団

 

●家臣の給料形態

庄内藩の家臣たちは知行取りである家中と、切米・扶持米取りである給人とに区別されます

これはそのまま大きな身分の差になりました

知行取りといえば領地を持っていてそこから年貢収入を得る者を言うと
以前「江戸時代の基礎知識 【武士の給料は?石高って何?】」という記事で書きましたが
ここで言う知行取りは知行取りといってもほとんどが蔵米知行といって、
実際にその土地に関わることはなく、蔵米を支給されるだけであり、
実質は蔵米取りのようになっていきました

Whitechocolateさんによる写真ACからの写真

だいたい江戸時代の諸藩では、直接領地を管理する地方知行(じかたちぎょう)よりも蔵米知行が一般的になっていきます

ちなみに「給人」という言葉は一般的には知行地を持っている人を指すのですが
藩によって違いがあり、庄内藩においては下級の武士(徒士・足軽など)を指す言葉のようです
実際、初期は庄内藩でも地方知行地を持つ者を「給人」と呼んでいたようですが
その後、先述した「家中が上、給人が下」といったはっきりとした身分差が生まれました

※武士の給料についての基礎知識は以下の記事で紹介しています

 

●家臣団の人数

庄内藩のような規模の藩ではどの程度の人数の家臣がいるのでしょうか

酒井忠勝はもともと信州松代藩10万石の藩主でしたが、
庄内藩に加増転封になり、規模も大きくなり、家臣を増やすことになります

江戸初期には大名改易が相次ぎましたから、浪人を探すのには苦労しません

実際、1650年までに202名の家中の新規召し抱えがありました
その中には改易された最上家の旧家臣も多く含まれています

寛永10年代後半には家中483名にまで増え、
給人もおよそ2000人はいたようです

 

●家臣の主な役職

庄内藩の主な役職の一部を紹介します
(シリーズ藩物語「庄内藩」本間勝喜著 より)

・家老
藩主を除けば藩政のトップ
3~6人
高力・松平・石原・水野・竹内・酒井…などの、庄内藩でも名門の家から選出

・中老
家老補佐

・組頭
家中25人で一組とする組の、二組に一人の割合で置かれたリーダー
600石以上の高禄者が選ばれた

・大目付
家臣の素行調査や法令違反がないか目を光らせる役職
200石以上から

・郡代、郡奉行、代官
郡代をトップに、農政や村々のことに携わる
庄内藩領は大きく八つの支配区分に分かれ、
その各区分に二名ずつ代官が置かれた

・町奉行
鶴ヶ岡城下(鶴岡)、亀ヶ崎城下(酒田)のそれぞれの城下町におかれ、
町政を担当する
200石程度から

・城代
庄内藩の支城、亀ヶ崎城を預かる役職
家老級の重臣が任命されたが、政治の中枢からは遠ざかる
適任者不在の場合は組頭が1か月交代で在番することもあった




参考文献

「シリーズ藩物語 庄内藩」本間勝喜(現代書館)
「藤沢周平が描ききれなかった歴史『義民が駆ける』を読む」青木美智男(柏書房)
「江戸300藩」(ハーパーコリンズ・ジャパン)

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